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早々に授業は終わり、立ち上がった透子のもとにまたも椎奈の声がかかる。伏せていれば忘れられるかと思いきや、ご丁寧に椎奈は私の名まで呼んだ。体を起こして、椎奈を見上げる。椎奈はにやにやと笑っていて、期待感をありありと示している。
「さーて、まずは書道部から行こうか?」
「え、いいんですか」
「いいよ。蜜柑さんは書道とか得意?」
「いや、全く」
残念ながら、書道の能は無い。もちろん、美術の能すらも無い。私にできるのは多少の音楽だけだ。それですら、新しい個体を手に入れてからのことである。
「じゃ、透子さんのお手並拝見ってことで」
「そんな……恥ずかしいですよ」
「私は美術部に入部届けを出すだけだから」
椎奈に軽く背中を叩かれて、透子は目線を泳がせながらこくこくと頷く。あはは、と快活に笑う椎奈の片手には、焼きそばパンが握られていた。
何も言わずに携帯電話──人間の生み出した偉大な財産だ──を眺めていると、肩をつつかれる。片目を細め、眉を寄せて見上げれば、透子が目をぱちくりさせながら私を見ていた。ターコイズが見開かれている。
「蜜柑さん、行かないんですか……?」
「え、あ、行くけど……」
「立って、立って。さっさと行っちゃおう」
椎奈に手を引かれ、立ち上がる。私を見下ろす椎奈と透子の背は、私より一回りも大きい。スレンダーな透子は、さらに高く見える。
みるみるうちに焼きそばパンを食べ終わると、椎奈はわざわざ水道に寄って綺麗に手を拭いた。ハンカチで手を拭きながら戻ってくると、私たちににこりと笑いかけ、先陣を切って歩き始める。歩くのに合わせて、椎奈の耳元では、紫の菱形のイヤリングが揺れていた。
透子は私と椎奈をちらちらと、交互に見ながら歩いていた。俯いてゆっくり歩く私と、呑気に早足で歩く椎奈。透子は私の隣で歩いていたが、歩幅は私より大きい。
私は今でも考えていた──なぜ、椎奈は私まで招いたのか。なぜ、クラスの中心にいる椎奈が、私たちなどに声をかけるのか。透子ならまだしも、私に何の価値があるのか。
私の隣にいたところで、虐められる良いきっかけになっておしまいだ。かつて人間だったときも、わたしはしばしば虐められていた──今の見た目では、さすがに虐められはしないだろうが。
ずっと下を向いていたせいで、椎奈が足を止めたのに気がつかなかった。背中に顔から突っ込む。透子はちゃんと椎奈の隣で止まって、書道部の部室を眺めている。
鼻を擦りつつ、おそるおそる椎奈を見上げた。椎奈は何も言わない。美術室の隣にある書道室を透子とともに見ているだけだ。
私は慌てて透子の背後に隠れた。書道部に興味があると思われたら困る。すると、透子の前に、透子よりはるかに小さい、眼鏡をした女子生徒が現れた。透子は無意識に背筋を伸ばしている。
女子生徒は透子が入部希望者であるかを尋ねると、破顔して部屋の中へと戻っていく。そして、部屋の中からは歓声が上がった。数人の部員が、筆を持ったままこちらを見つめている。
「なんか凄い、喜ばれてます……?」
「あ、すみません、私たちは付添いでーす」
目を白黒させる透子の隣で、椎奈はへらへら笑いながら答えた。眼鏡の部長らしき人が透子の背に手を添え、中へと連れこみ、透子はそれについていく。
椎奈と取り残された私は、何をしていいものか分からなかった。私を魅了した、つまらなそうな琥珀が隣にある。透子のいない今、私たちの間に会話は生まれない。沈黙が鋭く尖って心臓に突き刺さるようだ。
そもそも、私と椎奈が話したことなど、向こうから面白いと言われたくらいである。私には、私自身の何が面白いのかちっとも分からないから、話のネタも見つかりやしない。何も言えずに待っていれば、椎奈は透子の隣に歩み寄っていく。完全にタイミングを逃してしまった。
私も後から透子の近くに寄った。透子はさっそく硯と筆を持たされていて、半紙とにらめっこをしている。隣には書道部員が侍っていて、何か書いていいよ、と言っている。私は近くの椅子に座り、少し遠くから眺めていることにした。
「あの、少し、離れてもらえますか……?」
透子は小さな声で問うた。相変わらず、凛々しい姿とは似つかない様だ。上機嫌で答えて、上級生は一歩下がる。透子は小さく深呼吸をした。
その刹那。透子のターコイズは、光を持った。妙に外の音がくぐもって聞こえた。細くしっかりとした手が、筆を持っている。ゆっくりと筆は進み、白い世界に黒い線を引いていく。三白眼が輝くのも、息が詰まるのも、背後から差し込む薄い陽の光も、まるで彼女が世界を作る女神になったかのように艶やかで、荘厳で──私が見込んだとおり、美しい神のような少女だ。
彼女は、「世界を描く目」をしている。
一分、いや、数分、感覚としては何時間も目を奪われていたが、透子が紙を見つめていたのは一分にも満たない時間だった。書き上がった文字は、自らの名前だ。一から了まで、その全てを透視する、それが透子だ。私にはよく分からないが、一般にいう達筆といった様で、部員一同言葉を失っていた。
「あ、あの……受験以来、久々で……」
「謙遜しなくていいって。透子さん、書道も凄いんだね」
近くで見ていた椎奈がすぐに言葉を返す。しかし、書道「も」とはどういうことだろうか。言われた当人は、私が初めて話したときのように赤面して肩を窄めている。部員たちは椎奈が話しかけてはじめて我に返り、ぜひ入ってほしい、と口々に言った。透子はさらに困惑を極めている。新しい仲間に群がる姿は、教室で行われたような値踏みを思い起こさせる。
私が入る隙間も無く、透子はいろんな顔と言葉に囲まれていた。しかし、ちっとも嫌そうではない。薄い唇の端は上がっていて、目は緩く細めている。小さな声で、入ります、と答えれば、少ない部員たちを喜ばせる。声が上がる。
椎奈はその片隅で、いつものような薄っぺらな笑みを浮かべていた。少しして、私の方に歩いてくる。後ずさりしたい気分だったが、さすがに踏みとどまった。
今の椎奈への感情は、半端な恐怖だった。というのも、私は椎奈のことが怖くて仕方が無い。なぜなら、彼女はあまりにも蠱惑的だからだ。狐のように飄々とした笑みを浮かべているのに、ちっともその琥珀は笑わない。なぜだか分からないが、私に何らかの価値を見出している。何か良いことを期待してしまえば、笑わない琥珀が、瞬く間に私を大口で飲み込むだろう。
私は何も言わず、また椎奈を見上げる。菱形のイヤリングが揺れて、椎奈は歯を見せて笑う。くふふ、と変な笑い声を上げて、彼女は凍てついた目で私に話しかけた。
「もしかして、透子さんのこと、好きなの?」
びくり、と私の肩が揺れた。またも心臓に刃が突き刺さる。喉が詰まる。疚しいことなど無いのに、背中を冷や汗が走る。
椎奈は確かに笑っているし、悪意の一切が無い。子どもが蟻を潰すとき、何か感じるだろうか。きっと愉悦以外の何も無い。だが、椎奈には愉悦すらも見当たらない。ただ思ったことを言っただけ。何の意味も無い。笑い声に反して死んだ目が、明らかにそれを伝えている。
私はそれでも回答に詰まった。女性を好きだなんて言えば、次の日から有る事無い事吹かれるのは確かだ。何も答えられなければ、かえって疚しいことがあるかのように見える。頭が回れば回るほど、冷や汗は止まらない。
されど、あまりにも死んだ琥珀の瞳は美しい。感嘆が溜め息となって口から溢れる。
「好きだよ、もちろん、アンタのことも……?」
嗚呼、なんてことを口走ったんだ。だが、思いつく中で最善の答えだっただろう。私はおとなしく俯き、椎奈の興味が別に向けられるのを待つ。耳元が冷たく脈打つのを感じた。
「そう。てっきり、見惚れてたのかと思ったよ」
椎奈は笑いとばすと、さ、美術部に行こう、と言った。私はおもむろに首をもたげる。椎奈は普段の笑みを浮かべていた。
何も気まずいことなど無いはずなのに、私は胸を撫で下ろしていた。見逃された、と思ってしまうのはなぜなのか、私にも分からない。すぐに行ってしまった椎奈を追いかけるも、本当に椎奈は入部届を出すだけだった。先輩への挨拶も程々に、すぐに踵を返す。
私がぽかんとしてその様を眺めていると、椎奈はリュックを背負い直し、明るい声で別れを告げる。
「じゃ、私は帰るね。また明日ね、蜜柑さん」
「え、帰るの……?」
「うん。友達……クラスメイトも待ってるし。蜜柑さんは透子さんと帰るんでしょ?」
「……彼女は、書道部員と帰るんじゃないかな」
「そう」
誘われることも無く、椎奈は手を振って背を向ける。ぽつんと残された私は、無愛想な顔をして椎奈の後ろ姿を眺めているだけだ。短いスカートとアメジストのイヤリングが揺れている。
私は書道部の真ん中で囲まれている透子を一目見た後、椎奈から少し遅れて歩き始めた。価値の無い私には、価値の無い放課後がお似合いだ。誰とも目を合わせず、目が合ったとしても怖がられて、一人で歩くのがお似合いなのだ。
そもそも、人間に戻ると決めたときから、次は誰とも馴れあわないと決めていたはずだ。誰にも期待せず、誰も愛さない──そうすれば、私も幸せになれるはずだと知ったはずだ。だから、他人に臆することも、他人に愛されることも、必要が無い。
むしろ、愛とは恐怖である。
傾き始めた日差しを見ながら、一瞬でも透子に見惚れてしまった私自身を嘲笑うことしかできなかった。
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