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昔から私は、音楽が大好きだった。歌うのも大好きで、弾くのも大好きで、聴くのも大好きだった。だから、私が産んだ子には音楽の才を与えた。神として生まれ変わった際には、私は音楽の才を手に入れた。
しかし、私はそんなに歌うのも、弾くのも、上手かったわけではなかった。歌えば、声が大きい、汚いと笑われ、弾けば、練習不足だと怒られた。私は次第に、音楽を嫌いになっていった。
結論から言えば、私は余り物のバンドに落ち着いた。誰とも馴れ合わないメンバーが揃った。デスボイスができるというだけで、私はボーカルに選ばれた。
仲良くする気など毛頭無かった。しかし、他のメンバーも、利害の一致で組んだようなもので、話し合いはさくさく進み、意見はすらすら出てきて、早々に終わった。相手の名前など知らなくても、セッションができれば良いというバンドだ。
年が上であるというだけで威張れる、いかにも動物らしい先輩という個体たちのご機嫌をとって、私はすぐに部活から逃れた。人間は年が上である人に魅力を感じるらしい。生命力のある成熟した個体は、上質な子どもを生むからだろうか。私もそうだったから、あまり皮肉を言えたものではないが。
人間生活を始めてからというもの、私を産んだと公言する親というものとの付き合いでストレスがかかっている。可愛い弟がいるのは良いが、弟が遅くまで友達と遊んでいる以上、早く家に帰りたいとは思えない。どこかで時間を潰してから、忙しかった体を装うのが最善策である。
時間を潰す場所を探して、のんびりと廊下を歩き回る。もっとも、他の生徒には、肩で空を切って歩いているようにしか見えないのだが。
四階の外れの方に辿り着いたとき、ふと、透子の存在を思い出す。透子は四階の書道室で週に三回書写に勤しんでいる。彼女いわく、透子は部の中で最も熟練しており、先輩たちの注目を集めているらしい。他の部員は、少人数の文化部らしく、普段はお菓子を食べながら雑談をしているらしいが、透子は一人で黙々と何か有名な書を書き写しているらしい。
透子の邪魔をしかねないと分かっていても、息を呑むほど美しい、世界を作るあの姿を覗きたく思った。あれから一週間ほど経っている。きっとさらに集中して取り組んでいるだろう。他人に期待してはいけないのは確かだが、人間観察は趣味ゆえ、気になるのは仕方がないことだ。
早足で書道室に向かった後、足を止め、大きく溜め息を吐いた。そこに部員はいない。本日はオフらしい。完全に無駄足だった。
どこに行こうか、図書館は開いてるだろうか、いっそカフェにでも、と脳内で独り言を呟く。しかし、その思考はかすかな音で止まった。水の音だ。次に、乾いた音。また、水の音。小さな溜め息。ぽちゃん、と、また、水の音。下の階から聞こえる吹奏楽部の演奏の間に、小さなプロセスが聞こえた。
それは隣の部屋から聞こえていた。美術室に誰かいる。私はできるだけ大きな音を立てないで、扉からそっと顔を出した。
中では一人、キャンバスに向かう女子生徒がいる。短いスカートの下に長いジャージを履き、片方に黄色い筆洗、片方にパレットを置いている。片手には細い筆を持っていて、アクリル絵の具をキャンバスに塗りたくっている。
私はその後ろ姿に見覚えがあった。だが、声をかけることもできない。まるで透子が文字を書く様を見たときのように、私の足は地面に貼り付けられ、私の目は強引に開かれた。
かすかな息遣い。繊細な色遣いで描かれたもの。灰とベージュの混ざった人間の骸骨と、背に生えた真っ白な羽。黒い背景にぽっかり開いた、妙に宗教画じみたそれら。人間の汚れの一切が無い、死んだ絵。最初に見えたのはそんなものだったのに。
彼女が、椎奈が身を引いた瞬間、見てしまった。
骸骨の眼孔には、驚くほど精巧で、緻密に描き込まれた、生きた眼球があった。青い、蒼い、そして深い瞳だ。光も、目の潤みも、アクリル絵の具がリアルに表している。
私は絶句したまま、その場に立ち尽くした。死んだ目をした椎奈と、生きた目をした骸骨が見つめ合う。どちらが本物の生き物なのか。むしろ、椎奈の本当の姿は、描かれている骸骨なのではないか──詩的な考えが駆け巡って、私の創作意欲を刺激する。
「蜜柑さんじゃん。いたんだ?」
激しく頬を叩かれたかのような衝撃で、目を覚ます。我に返った私は、椎奈が座ったままこちらに振り返っているのに気がついた。青紫のヘアピンで前髪を留めている姿に見覚えは無い。
「え、あぁ、うん」
「部活は? 美術部志望?」
「ち、違う。単に、椎奈さんを見つけたから」
「そう。帰るの?」
椎奈は口癖のように、そう、と言う。そこに一切の興味は無く、了解を示すだけだ。
肯定してしまえば、今見た光景をただの偶然として片付けられただろう。感嘆を漏らすほど美しかった椎奈を、ただの幻覚だと言って済ませただろう。もし私が、椎奈に一切の興味が無ければ、互いに関心の無い無愛想な挨拶をして追われただろう。
それでも、口は勝手に動いてしまった。
「いや、少し見ていこうかって」
本音を口にしてしまうのは、少し暗くなり始めた空が眠気を誘発したからかもしれないし、椎奈が何か魔法を使ったからかもしれない。とにかく、私は自制心と謙虚さをかなぐり捨て、自らの好奇心に屈した。ヒト博物館で、知りもしないヒトの前で釘づけにされた神というのは、なんとも愚かしい。
椎奈は少し黙ると、また冷たく、そう、と言った。そして、筆を筆洗に突っこみ、私を手招く。
「って言っても、今日はもうおしまい。集中が切れちゃったから」
「……ごめんなさい」
「気にしないで。ま、短い時間で描いちゃってるから、この絵も失敗作だけど」
「……は?」
ついつい素で聞き返してしまった。慌ててもう一度、ごめんなさい、と言う。椎奈は特に気にする様子も無い。筆を水の中でくるくると回しながら、口を尖らせて続ける。
「蜜柑さん、宗教画って知ってるよね」
「え? あぁ、はい」
「一筆一筆に祈りを込めるから、あれってとても聖なる感じがすると思うんだよ」
「うん」
「私も、一筆一筆に思いを込めなきゃ、私の世界は完成しない気がするんだよね……ま、神様なんて信じてないけど」
椎奈はじっと水面を見つめ、半笑いで言った。
もちろん、椎奈の目の前にいるのこそ、一人の神様である。今でこそ人間生活に身を窶しているが、今も神様らしい力を持っている。世界を書き換えることすらできる。だからといって、信仰心を試すつもりは無いが。
私は椎奈の言葉の端に、わずかな嘲笑を感じた。笑い声を上げたわけでも、罵ったわけでもない。しかし、椎奈の目から光が失せるのを見て、怪物に舌舐めずりをされたかのように、背筋が震え上がる。
「素敵だと思うよ」
「そう。蜜柑さんはどう思う?」
「何が?」
「神様って、いると思う?」
「そ、それは……私は、いると思う、けど」
唐突に尋ねられ、私は圧され気味に答えた。
まさか、ごく普通の女子高生から、こんな哲学めいた質問をされるなどとは思ってもみなかった。しかも、普段から特に仲良くしているわけでもない椎奈から、だ。変なことを答えれば、きっと笑われておしまいだ──そう思ったのに、椎奈に見つめられると、自然と口が動いてしまう。
「神様は、人間を心から愛していて、心から憎んでいるから、試練を下す。そこで起こる化学反応を見るのが、大好きだ」
「知ったようなことを言うんだね」
「っ、ごめんなさ──」
「さっきから謝りすぎだよ。何か謝ることあった?」
突き放されたような口ぶりに、また謝罪を口にしていた。椎奈が変わらない薄笑いを浮かべているというのに、まだ私は謝り足りないらしい、さらに謝罪を続けた。
椎奈は不意に、くふふ、と笑った。押し殺したような、変な笑い声。目が細くなって、肩が小さく揺れる。にたぁ、と笑う椎奈に、私は押し黙った。
「なんとなく思ってたんだけどさ。蜜柑さんって、変わってるよね」
「変わって……? どのへんが?」
「いっつも他人には興味ありませんって感じで目も合わせないし、人の名前も覚えないし。良い点とっても、友だちが出来ても、少しも笑わない。でも、ときどきぽかんとして私や透子さんを見てる。しかも、とっても嬉しそうにね」
体の芯が、ぞくん、と震えた。椎奈の目は、全てを見透かしている。知られてしまう、暴かれてしまう──とてもおぞましい恐怖が、快感にも似た感情を呼び起こす。変な寒気がして、腕を手で擦る。
「あ、目ぇ逸らしたね。図星だべ?」
く、と変に喉の詰まった声が出た。
嗚呼、いけない、恐ろしいことだ。知られるということ、理解されるということは、危険なことだ。それを快感として認識したとき、私は愚かな人間に戻ってしまう。
何の価値も無い私に、理解してもらった代金は払えないのだ。
赤くなった頬を隠すように俯き、静かに答える。
「見てるんだね」
「見てるよ。だってどう考えたって不思議だべ? すっごい派手な格好して、まるでイケてる女子って感じなのに、なんかぎこちないんだもん。今話してくれて確信したよ。蜜柑さんも、『透子さんと同じ』変わり者だって」
「透子さんと……? 何か、話したの……?」
「ほら、この間体育休んだべ? そのとき、私が透子さんと組んだんだよね。それで、けっこう話した」
この間、私は持ち前の体調不良で体育を欠席した。もとより運動が嫌いだった私は、昔からの偏頭痛に悩まされたのをいいことに、保健室で眠っていた。椎奈は普段から仲の良い友達がいるのに、その回は透子を選んだということだ。
私は何も言えない。気がついたら、椎奈と透子が仲を深めていていたと言われても、今の私では嫉妬すらできない。妙に妥当性を感じるだけだ。
「あれ、嫉妬しないんだ」
椎奈はそんな私の思考を見透かしたように続けた。頬杖をついて、得意げに微笑む。
「しないよ」
「そう……ねぇ、これからも暇な平日はここにおいでよ。あぁ、もちろん、期待してないから重く捉えないでね。ここの部活、ほとんどが幽霊部員でさァ。暇なんだよ」
「どうして、アタシなんかを?」
「君に一定の利用価値があるから、かな」
目を細めて低いトーンで答える姿にまた、ぞくり、と背が震えた。少し暗くなりかけ、赤紫に染まる夜空をバックに、琥珀色が怪しく光る。
駄目だ、私はこういう人が酷く苦手なのだ。顔が特段良いわけでもなく、特段優しいわけでもない。しかし、私を必要としてくれる人。これでは、また同じことを繰り返してしまう。私は必要とされると、決して断れないのだ。
分かった、と答えた。喉は凍って冷たい。椎奈は満足気に笑う。夜がよく似合う女狐だ。神が悪魔のような存在に誑かされるなど、ありえてはならないことなのだが。私にとっても良い観察対象であれば十分だったのに。
それでも、人としての私は、大声で野を駆け回りたいほど喜んでいたのだ。さながら、ビッグ・ブラザーを目の前にした職員のように。
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