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透子とは何も話せないまま、放課後になった。バンドの練習は週に二回であり、ほとんど共に過ごすことは無い。また暇な放課後を、親に会いたくないがためにのんびり過ごすこととなった。
そもそも、私に親への良い思い出は無い。かつては厳格な父と気弱な母の間で生きてきた。父親は悪いことをする私をしばしば殴った。書いていた小説を捨てられたこともあった。母親はそれを止めはせず、むしろ私が悪いのだと決まって言った。いい子にしていれば殴られないのだ、と。
父親は話し声を嫌ったので、私はいつも部屋で黙っていたし、母親はヒステリックだったので、決して否定しないようにしていた。
私は自殺したとき、何の後悔もしなかった。家族への申し訳無さの一つも無かった。あの後、私の家族がどうなったかは知らない。今の家族も、愛する弟以外はどうでもいい。戸籍に名前を書けば、誰だって親になれるのだ。私はそんな親を好かない。むしろ、私が欲しているのは、真の母親だ。
殴らない、怒らない、優しい、叱ってくれる、美しい母親だ。
昔を思い起こしながら、ゆっくりと美術室に向かう。結局椎奈の誘いを断ることはできなかった。私は椎奈に魅了されてしまっていたのだ。
「あ、蜜柑さんだ」
「……こんにちは」
「何の話する?」
椎奈と話すときは、いつもこの入りから始まる。描いていたキャンバスから目を離し、くるりとこちらを向く。愛想の良い笑顔を浮かべ、筆を洗いながら私に話す。私は近くの椅子を運んできて、そこに足を組んで座るのだ。
話の内容は多岐に渡った。神の有無、倫理観の是非──その全てにおいて、椎奈は共通してニヒリズムであった。彼女は決して神や絶対権威を信じない。人間の価値というものを信じない。彼女は決して、人間を愛さない。
「何の話……透子さんに、ついて」
「あれ、他の人の話をするなんて珍しいんだね? 透子さんのことが気になるんでしょ?」
「……透子さんに、嫌われてしまったかもしれなくて」
私が素直に悩みを吐露すれば、椎奈は琥珀色の目を丸くした。そして、冷たい瞳に変わる。
「はぁ……嫌われたか気にしてるの?」
「……え」
「あのさ、嫌われるときは嫌われるもんだよ」
「椎奈さん……?」
椎奈は溜め息と共に言葉を吐き出した。目は細められ、口元は感情を示さない。
そんな姿にさえ、私は少しだけぞくりとした。人間ごときが、神に逆らうのか──そんな台詞が浮かんでも、憤怒の感情は全く無い。よく魔王は勇者に対して、面白い、と称するが、まったくその通りだ。
「最近思ってたんだけど。蜜柑さんって随分人間臭い性格をしてるよね」
「……そうかな」
「何で透子さんに嫌われたか、分かるの?」
「気を使ってるから……?」
「嫌いになるわけないべよ。逆だよ、逆」
「逆?」
椎奈は筆洗を片手に、水道へと向かった。濁った水を筆洗に流し入れ、背を向けたまま、椎奈は冷たく続けた。
「気を使うってのは誰かから距離をとろうとしてるってことだよ。何で気を使うか? 嫌われたくないから」
「……だって、アタシごときが透子さんと友達になんて」
「あのさ。君が神様か奴隷かだったら別だけど……人間には等しく価値が無いんだよ?」
え、と思わず口にした。もちろん、時々椎奈から聞いていた台詞であったが、まさかこのタイミングで聞くことになるとは思わなかった。
椎奈は口をへの字に曲げて憂鬱そうに言う。
「君も透子さんも生きてる価値すら無い。だったら、気を使う必要なんて無いんじゃない? しょせんどちらも無能で下衆な人間様じゃないか」
「……椎奈さん、そういうアンタは」
「私もだよ、最低な、人間という種。でも、精神的にはそんなもの無い。私を縛る性別も年齢も無い。愚かな人間様達が私に価値と名前を与えただけでしょ?」
椎奈がこの手の論理を展開するたび、私は愛おしいような、悩ましいような気分になる。しかも、目は笑っているから、私は何も言えなくなってしまう。
「価値が無いんだから、愛されるわけないべよ? 世界中皆、ゴミ屑同然。透子さんですらも、君と同じ立ち位置なんだ。だから、気なんて使わない方がいいよ」
「……アンタという人間は分からないよ」
「でも、アドバイスできるとしたら。透子さんは私によく似ている。あの子は性別にも年齢にも囚われない人間。運動もできれば文化的な活動にも長けている『万能人』。だからこそ、私はあの子と仲良くできたのかも」
透子は運動もできるらしい。さらに言えば、椎奈同様に並の人間と同じ思想ではないらしい。
私はずっと透子のことを、少し引っ込み思案な少女として扱ってきた。それは軽く間違っているらしい。椎奈のような、中身の分からない存在だということだ──そうであればこそ、気を使ってしまうのだが。
「だから、アタシには分からない。人間とどう接していいか、分からないんだよ」
「やっぱりそうだ。蜜柑さん、人間っぽくないよ。まるで神様みたい」
「それはアンタみたいな人のことを言うんだよ……」
「……でもさ、蜜柑さん。蜜柑さんも人間なんだよ。一生誰にも愛されないし、一生誰を越すことも無いんだ。変に期待する方が悪い」
椎奈の言葉が喉と胸を貫く。言葉が出なくなって、胸元にじんわりと熱い傷が生まれたようになる。私はただ俯く。
まるで神様か宣教師か、快活な口調で椎奈は話し続ける。
「いい? 人間はいつか死ぬんだ。私もそのうち死にたいと思ってる。だからさ、いくら期待して愛されたがったって、無駄。死んだら全部おしまい。透子さんと仲良くなりたいのは分かるけど、そこまでして嫌われたくない理由でもあるの?」
「……それは、透子さんが好きだから……?」
「はぁ……駄目だね。人を好く方が悪い。愛されようとする方が悪い。諦めたら?」
「じゃ、じゃあ、椎奈さんは? 何でアタシと一緒にいるの?」
口を突いて出た言葉は、最初から正文になったわけではない。椎奈が口を閉じてこちらを見つめている。
そこで私はやっと、また間違えたのだと気がついた。依存、愛情──椎奈が嫌いそうな言葉だ。案の定、椎奈の表情は歪む。嘲りに変わる。背筋が凍るような恐怖と、身を焦がすような愛情が同時に走っていく。
「単純にそこらへんの女子より面白そうだったから、人間観察がしたかっただけだよ。でもこの調子だと、君はつまらない人みたいだ」
「……そんな、ごめんなさい」
「謝らないでよ、何で謝るの?」
「気を悪くしたみたいだから」
「別に? 期待してないから」
椎奈は決して私を責めるような口調ではない。今日は焼きそばパンが無いから、クリームパンにしよう、そんな程度だ。でも、その様子が私の胸にさらに刃を深く差し込む。
嗚呼、壊れてしまうから、それ以上言わないでくれ──そんな弱音は私の口から出なかった。ただぼんやりと紫の空が私の目に映っているだけだった。
椎奈が筆を洗い終わると、リュックを背負い、中からクリームパンを食べはじめた。私がいることも気にせず、無言で美味しそうに食べている。
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