幕間:『神崎蜜柑の邂逅』

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 一ヶ月もすると、クラスのメンバーは固定化されてきた。当初は椎奈の周りに集まっていたクラスメイトも解体され、大きなグループに属する少数グループ、といった様相が明らかになってきた。  むろん、椎奈は相変わらずクラスの窓口であり、私と透子は大きなグループに属さない独立したコンビであった。しかし、そんな生活も心地良いもので、私は嫌いじゃない。透子のことは分からないが。  結局、透子には私の話をあまりできていない。体が弱くて運動ができないとか、可愛い弟がいるとか、親とは仲が良くないとか、透子には一目惚れしたとか、そんな話をした。最後の話については、透子の恋愛対象は男性だという話も聞けた。  それでも、私にはまだ椎奈のことが分かっていなかった。透子いわく、椎奈は気まぐれで潔癖症らしい。私は、なぜ見損なったはずの私と話を続けてくれるのかが分からないのだ。  本日も時間潰しのために美術室へ向かった。扉から覗き込めば、もはやキャンバスにも向かっておらず、部屋で一人で黙々とあんぱんを食べている椎奈がいた。あまりにもシュールな様に、思わず笑ってしまう。 「あ、蜜柑さん」 「……こんにちは」 「今日は何を話すの?」 「アタシの話」 「えー、面白いこと出てくるの?」  友人の話には元気に頷き、にっこりと微笑む椎奈だが、私の前ではふてくされた顔もする。そして、この顔も予想通りだ。  それでも、私は一つ決心していた。私の話を通して、椎奈の本音と性格を引き出す。その上で、何が最も椎奈にとって価値があるのか見極めるのだ。それを差し上げれば、この面白い人間と、また楽しい話もできるだろうから。 「アタシさ、実は神様なんだ」  それに、そろそろ私も自分の話をしたくなっていた。神様も人間も嫌いな椎奈はどんな反応をするのか、嘘だと思われてもいい、確かめたかったのだ。これは、神たる純粋な興味である。  椎奈はあんぱんを食べ終わると、手を洗い、その後ぽかんと口を開けた。言葉は返ってこない──私が利益を叩き込み、相手が心を開いてくれるまで待つのだ。 「誰も信じないと思う。でも、アタシは使徒を作った。この世界を作った。なんなら、今 世界を書き換えることもできる」 「……は?」 「その力は使わないって決めてるんだけど。たとえば、この世の貨幣の価値を失くすことも」 「そう。結局神様は人間の姿をしてるんだ。ますます人間が嫌いになったよ」  最後の一言は、苛立ちとともに吐き出される。死んだ琥珀色に、わずかに鈍い光が走った。初めての表情だ。 「だいたい、神様っていうのは人間の幻想だからね。だから二本足の人間なんだべ。つまり、アンタも人間から創造された神様ってことだ」 「……アタシは元々、人間だったからね」 「は?」 「自殺して、生き返って、神になった。神になって、この世界で人間としてやり直した」 「……絶望的だね」  椎奈は苦虫を潰したような顔で吐き捨てた。怒りか、悲しみか、何かは分からない。それでも、椎奈の普段の穏やかさは捻じ曲がっている。  かつての私なら、これも愉悦と笑えただろう。絶望する様を見てケタケタと笑って悦に入った。でも、私の愛した子が揃って死んでいったのを見て以来、もう他人の不幸を笑えなくなってしまった。 「絶望的だよ、こんなの。神様ですらも人間なんて、キリストとかアッラーとかヤハウェとか、全部価値が無いじゃん。神話も何の価値も無い。何年もかけてやってきた宗教論争にも意味が無いってことでしょ?」 「……そんなこと、ない。人々の営みは実に興味深くて、素晴らしいから。何かに団結し、縋る様こそ、人間らしいといえる」 「そりゃそうでしょうね。でも、私は絶望した。やっぱりさっさと死んでおいた方がいいな……」 「待って、どうして死ぬの? どうしてそんなに人間が嫌いなの?」  私がはっきりと質問すると、椎奈は片眉をあげて不機嫌そうに口を曲げた。眼光は鋭くなり、狐でも猫でもない、それこそ神を怒らせたような緊張感が私を襲う。  嫌われてしまうだろうな、と直感で理解した。妙に頭だけは、そう、体はともかく、頭だけは冴えていた。  椎奈は何も話さないまま、私より遠くを見て睨みつけていたが、小さく溜め息を吐くと、手元に置いてあったハンカチをいじりながらぶつぶつと答えた。 「人間は惨めだよ。何も無くたって人を妬む。二人以上いると、必ず憤りが生まれる。それが祟って、あとで破壊的行為に及ぶ。人間に価値を求めて自滅する。 人間に特有な感情は好奇心とかいうけど、そのせいで何人も死ぬ。何が霊長類だ」 「……椎奈さんは、怒ったりしないの」 「するよ。だから私自身も死ねばいいと思ってる。私はもう、私という人生を完成させている。これ以上何も要らない。だから死ぬ」 「死なないで、って止められないの?」 「止められるよ? 寒気がする。気持ち悪い。世の中には希望があるよ、って言うんだけど、寒すぎるよ。ダサすぎる。全員死んでしまえ」  透子が椎奈を潔癖症と称していた理由が、なんとなく分かった。椎奈は確かに物理的に潔癖症だが、精神的にも潔癖症であるらしい。自分の理想しか見えておらず、疵を酷く嫌がる。  心底気味が悪そうな顔をして、椎奈はもう一度溜め息を吐いた。眼光は鎮まり、また死んだ目が私を見る。死んだ目だけしか見えない。  私はそんな目を見て、背徳感にも似た感情を覚える──いや、違う、動悸のせいで興奮を感じるだけだ。 「憎悪を募らせたり、誰かを愛したりしたことは、あったの?」 「あったよ。くだらない日々だった。愚かだった。だから、もうしない。嫌悪感はあるかもしれないけど、もう他人に期待なんてしない」 「……じゃあ、クラスの中心で笑ってるのも」 「あれは良い人付き合いの勉強だよ。ケラケラ笑ってはしゃいどけばオーケーなんて、人間の知能を疑うよ。でも、その分次はどうするか分かるから」 「どうして、アタシと話すの?」  私は再び同じ質問を投げ込んだ。椎奈は口を閉じる。いや、その姿は椎奈とは思えない。  別に生易しい言葉が欲しかったわけではない、と思っていた。期待していたわけではないと。ただ、今まで自分を傷つけてきたお返しをほんの少しだけしてみたいと思っていた。  私は「椎奈と」話がしたかったのだ。それは、立派な希望といえるのではないだろうか。 「別に意味なんて無いよ。しょせん人間から話を聞いてたって分かって、愚かな時間を過ごしたって後悔してる」  それなのに、この言葉を境に、私の呼吸が早くなっていくのはどうしてなのだろうか。 「君が話したかったのは、君の理想の私だったんだよ。そっちも後悔した方がいいよ」  椎奈の憎悪を一身に受けて、どうして私は笑っているのだろう。心拍が早くなっていっても、どうして私は笑っているのだろう、否、泣いているのだろう。  ヒュウ、と背中が鳴った。体が一気に寒くなった。腕を押さえた。椎奈が目を見開いた、違う、眼前に手が迫った。殴られるのだ。  殴られるのは、痛い。嫌われるのは、もっと痛い。怒られるのは、もっともっと怖い。それを私は、痛いほどよく分かっている。 「蜜柑……?」 「どうして、酷いこと、言うの……?」 「……どうしたの? なんか変だよ?」 「何か、悪いこと、した……?」 「蜜柑? ねぇ、ちょっと──」 「私は大好きなのに、どうして殴るの……?」  理解してしまった。  私が話しているのは、理想の椎奈でも、理想の私でも、化け物でもない。目の前にいた、私を殴って、嫌った、誰かだ。 「お願い……虐めないで……」  頭が真っ白になって、座り込む。椎奈が見えない。椎奈が見たかった。それでも、眼前は暗闇に呑み込まれていく。耳元では、くぐもった声が聞こえる。  私がなぜ、椎奈と話すと苦しくなったのか。それは、椎奈が他でもない、私にとっての、かつての私にとっての、絶望を語る存在だったからだ。
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