幕間:『神崎蜜柑の邂逅』

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 正直に言えば、人間生活ほど絶望に満ちたものは無い。  人間は全ての動物の中でも最もやかましく鳴く動物で、最も世話が面倒な動物だ。最も自殺が多く、最もつまらない動物だ。だが、ちゃんと育て上げれば、最も個性が出て、最も良く生きる。最も面白くなる。  人間を飼う場合、社会という檻が必要となる。ここは、霊長類が躾を受ける、「学校」という檻の「教室」というまたさらに小さな檻の中だ。初めて会った人間たちは、ここで御挨拶をする。  今日から、貴方たちは高校生です──私は以前も、この台詞を聞いたことがある。あらゆるものの継承のため、みんなを率いる成体がこう言った。珍しく鳴くのを止めた人間たちは、「教師」と呼ばれる個体をじっと見つめる。  檻に入ってしばらくは、個体同士が仲良くなることは無い。しかし、仲良くならねば生きていけないので、友達を作る。非常におとなしかった個々人は、あとでグループを作り、以前同様に大きな鳴き声を上げるであろう。  そんな人間は、自己紹介で値踏みをする。この個体はいかなる能力を持ち、いかなる性格をしているか確認する。できるだけ強い個体と仲良くなれば、生存戦略も立てやすいというところだ。とはいえ、人間たちは最初、できるだけ目立たないように、敵に回されないように静かでいることが多い。  月並みなご挨拶、月並みな個性、月並みな拍手。人間として、私にもそれが向けられるべきであった。 「神崎蜜柑です。入部予定は軽音部。よろしくお願いします」  私は他の人間から浮いていた。  いくら校則でピアスが認められているからといって、耳に、唇に、目元に、たくさんピアスをつけていること。  いくら校則である程度服装が自由でも、ジャージを羽織っていること。  いくら緊張しているからといって、目つきが異様に悪いこと。  私は日本語でいう、「ヤンキー」というものに見えかねなかった。とても強そうにさえ見えた。人々はどよめき、小さな拍手を送る。畏怖か、恐怖か、はたまた軽蔑か。私が座ると、私の中身も知らぬ馬鹿どもは、クスクスと笑い声を上げる。躾の為されていない人間は、煩いから嫌いだ。  すぐに俯いて、また眠りに戻ろうとしたとき、ガタン、と大きな音が鳴った。眠気が覚めてしまう。振り向けば、女子生徒が慌てながら立ち上がっていた。  私は、その女子生徒に目を奪われた。  白い肌に、ターコイズの瞳。口元のほくろが色っぽい。焦げ茶の短髪はあまり手入れされてなくても、細くて綺麗だ。スレンダーな立ち姿もまた美しい。  何より、彼女はメイク一つしていないのに、一際目立って妖艶で端正だ。口元のほくろだけが左右のバランスを崩していて、そのアシンメトリーさも美しさを引き立てている。 「久遠、透子です。入部予定は、書道部です。よろしくお願いします……」  凛々しい姿から、小さくて低い声がこぼれた。  魅了された人々は、少し間を開けてから拍手をする。私もつられて手を打った。  透子は俯いたまま着席した。白い耳は赤くなっている。どうやら恥ずかしがり屋らしい。真っ白で新しいワイシャツが、顔の赤さを引き立てている。 「……はじめまして」  私が人間生活を始めて、初めて声をかけた学生だった。透子の声とはかけ離れた、自分の幼く高い声を嘆きたい。  透子はちらりとこちらを向くと、さきほど同様、小さな声で答えた。 「はじめまして」  少し熱っぽく潤んだターコイズが、朝の日差しで光っている。眉を少し寄せて、眩しそうに私を見つめる。瞳孔はかすかに揺れる。  この子は、何か違う。周りと同じ顔をしていないし、いくらもっと美しく可愛らしい雌の個体がいたとしても、この輝きとは質が違う。外だけではない、内からも輝いているのだ。  喉が張りついてしまったかのように絶句していた。透子がかすかに顔を起こしたとき、やっと我に返って瞬く。よろしく、とだけかろうじて言って、私は前を向いた。  どれだけ見回していても美しいヒト個体はいない。みんな同じ声、同じ顔、同じ名前にすら思える。いくらオスの個体であれど、つまらないことに変わりは無い。何も面白いものを持っていない──ふと、私は自分が人間であることを忘れて、人間観察に没頭していた。  あっという間に自己紹介は終わって、入学テストの返却に入っていた。担任は慣れない個体名を呼び、呼ばれた人は前に出て紙を貰う。高校に入って、初めて教師から能力を評価されるテストだ。各々、紙に描かれた評価を見て一喜一憂する。  私は、人間であった頃からテストが大嫌いだった。私がかつて人間を辞めた理由の一つだ。人間生活の一つの絶望だ。  神崎蜜柑、と名前を呼ばれて、少し遅れて反応する。まだこの名前に慣れていない。担任が紙をひらひらさせる。私はそれを奪い取ると、赤い数字を見つめた。 「このクラスで一番でしたね」  教師は口角を上げてにこりと愛想よく微笑む。きっと私も微笑むべきなのだろう。だが、私にはそれはできない。腹の底から湧き上がる熱く黒い自殺願望を、口を閉じて抑えるので精一杯だ。  「このクラスで」一番であるということは、学年で一番であるわけではない。一番ではない。一番でない個体には何の意味も無い。  教師の白い歯が、私の死んだ黒い瞳には眩しすぎた。黙って受け取って、さっさと席に着く。 私の学力など、特段誇れるものでもない。周りの生徒らが興味深そうに私の答案用紙を見るのも、特段素晴らしいことではない。確かに他の生徒からすれば、いかにもヤンキーといった見た目の優等生というのは面白い個体かもしれないが。 「へぇ、蜜柑さんって凄いんだね!」  机に伏せようとしたとき、突然声をかけられた。顔を起こすと、狐のような笑みを浮かべた、可愛らしい女子生徒が私を見下ろしていた。琥珀色の瞳は細められている。 「あ、私は柳原椎奈っていうんだ。よろしくね、蜜柑さん」  細い体、短いスカート、大きな黒メガネ、耳元で揺れる大きなピアス。若々しく煌めく瞳。若いメス個体の好む装いがそのまま出てきたかのようだ。以前、私はこういう輩に目をつけられたのだ。  私は何も言わずに椎奈のことを見上げた。すると、椎奈は、あはは、と笑い声を上げた。焦げ茶の眉を上げ、腹に手を当てる。 何がおかしい。しょせん二番手の私には価値など無いのに。私は笑われるのが大嫌いなのだ。 「蜜柑さんって面白いね」  ありがとう、とでも言っておくべきか。私はしばし悩んで、どうも、とだけ答えた。  すぐに椎奈は他の女子生徒に呼ばれ、離れていく。スクールカーストの選別では、さっそく上手くいっているらしい。私はその姿をぼんやり眺め、今度こそ眠りにつこうとした。  私は、大きく目を見開いただろう──嗚呼、私は、この目を知っている。  椎奈の琥珀色の瞳が、一瞬こっちを見た。口角が上がっていた。笑っていた。  それでも彼女の瞳は、人形のごとく死んでいた。
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