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家に帰っても、ただいまは言わない。僕がいようといまいと奴らには関係が無い。奴らが欲しているのは年頃の女性ではなく、お目々をきらきらさせて言うことを聞いてくれる少女だ。
何も言わないまま、自室に向かう。何の音もしない。荷物を置いて、ノートを出して、また座る。携帯は弄れない、あまり触りすぎると通信量でバレてしまう。やっと高校になって自由に使えるようになったのだ、屁理屈をつけられて通信手段を切られては困る。
シャワーも睡眠もそっちのけで、再びノートに目をやる。今度は世界史だ。暗記は回数が物を言う。流れを理解するのも忘れないように、時々教科書を開く。
オレンジ色の文字を赤いシートで隠す。緑のシートで文の一部を隠す。要らない紙に単語を書き綴る──つまらない。非効率的だ。それでも、僕は平均点では許されないのだ。
集中も極まった頃、ノック音で我に返る。冷たく鼓膜を震わせる。
ぷつん、と集中の糸が切れればそこまで。扉を開けば、険しい顔をした母親がこちらを睨みつけていた。
「ただいまくらい言いなさいよ」
「ただいま」
「こんなに遅く帰ってきて、どこかで遊んできたんでしょう? 夕飯は?」
「図書館に勉強をしにいってた。夕飯要らないって朝言ったよね?」
「連絡もよこさなかったじゃない」
怪しいな、と言い、母親は扉を乱暴に閉める。凍てついた金具の音。悍ましいことだ、誰が携帯を触らせないようにしたと言うのだか。
再び机に向き合い、今度は物言わぬ教科書と睨み合う。何も話さない。小説はたくさんの物語を僕に話して聞かせてくれるが、教科書は歴史の内容を無感情に語るだけだ。僕を叙述トリックで騙してもくれないし、安っぽい展開で泣かせてもくれない。
「つまらないなぁ」
ただ、面白くない、それに尽きる。
勉強が嫌いなわけではなく、むしろ好きな方だ。知らないことを知るのは常に魅力的だ。さながら、僕自身が探偵になって殺人事件を解き明かすような感覚に襲われる。
しかし、受験勉強は違う。我々人類がAIに負けない貯蔵量と活用力をどれだけ持っているか示す、いわば人類の品定めにすぎない。答えは最初から分かっていて、いかに早くその答えを得られるかのかけっこ大会だ。しかも、走るときの風すら感じない。
それを押しつける我が家庭も非常につまらない。進学実績に何の意味があるのか。医学部に行ってほしかった、文系なんて馬鹿みたいだ、と嘲笑った彼らは、所詮有名校の出でしかない。学校に行けば、もっともっと上、留学やら日本一の大学やらを好奇心のみで目指す最高に面白い人間が僅かにいるのに。
苛立ちが熱になって手にこもって、シャーペンの芯が折れた。あ、という声を上げたのを最後に、今度こそ集中力が跡形も無く消えた。
時刻は十一時。ペンを置き、大きく伸びをする。冷蔵庫の中のような、ライトの白い光が目に突き刺さる。冷たくて息ができない。
今日はもう限界のようだ。廊下が静かであることを確認して、両親に会わないように部屋を出た。
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