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曇天の下、私は屋上に立っていた。秋風は凍てつくほど冷たい。赤いマフラーに顔を埋めても、今度は耳が寒い。
立っているだけで、伸ばしっぱなしの髪は乱れていく。今の私はさながら雪女だろう。
上履きの下を覗き込む。灰色の死んだコンクリートが私を招いている。天女が歌っている。一歩踏み出してごらん、貴女を幸せな場所にお連れしましょう。
天国も地獄もくだらない。死んだ後に残るのは、思考から解放された永遠の無と安息だけだ。
「くだらない」
思わず、内心が口に出てしまった。
くだらない。世の中の全てはくだらない。期待しても報われないし、期待されて。
私の人生は、くだらない。
良い成績を獲っても、にっこりと微笑んでみても、母親は私を褒めやしないし、父親は私を殴りつける。母親はヒステリーを起こす。先生も先輩も、優等生でいたとしても私を愛してはくれない。
誰にも愛されない私の人生に、価値は無かった。
「くだらないなぁ……!」
クツクツ、と喉が鳴る。笑い声が口から溢れる。もう涙は散々流した。
それでも、私は両親を、先生を、友達を愛していたのだ。きっと愛されると誤解して。世界を愛していたのだ、きっと私は報われると信じて。
嗚呼、何よりも愛しい、私の世界よ。どうして貴方は、私の首を絞め上げるのだろう。それは、貴方がサディストだからだろうか。貴方が私を愛したからだろうか。物語で読んだような、優しい愛し方を知らないからか。
そんな私を見て、読んで、人々は恥ずかしいと嘲笑う。若き血の昂ぶり。若き目の洞察。被害者面。被害妄想。自信過剰。自己中心的。甘えん坊。構われたがり。全て侮蔑だ。
誰かの黒歴史となる私の生に、何の意味がある?
見ているんだろう? 答えたまえよ。
足を踏み出した。灰色のコンクリートに飛び込んだ。頭が下になった。空を切る音以外、何も聞こえなくなった。
そこで、私のお話はおしまい。
「終わらないよ」
どこからともなく聞こえてきた声に、ゆっくりとまぶたを動かす──私のまぶたは、なぜ動く?
目を開ければ、そこには逆さまに立つ人がいた。いや、私が逆さまなのだ。その人はコンクリートに直立しているだけだ。
水色の長髪に、灰を混ぜたような青い目の人。スーツのポケットから手を出すと、その人は私に冷たく笑いかけた。
喉を動かす。喉はまだ動く。体は鉛のように重くて動かないが、口は動かせる。私はなんとか、だれだ、と発音した。
「初めまして。僕は思うんだ……君の人生がここで終わるのは、少々勿体無い、と」
「なぜ──」
「そうだね、君は僕の正体を訝しんでいるみたいだ。なら、こう言おうか──僕はこの世界の観測者。ストーリーテラー、略してステラ。神様と呼んでもいいよ」
神様、観測者。まるで理解できない、ファンタジーじみた言葉だ。まさか私が、いわゆる異世界転生モノのように善い神に選ばれたわけがあるまい。
だって、私は最低で、くだらない、価値の無い人間なのだから。だとすれば、復讐モノの主人公にはなれるだろうか。
私の頭は、非論理的な現象に対して回り続けている。何も言えず神様を、ステラを眺める私を見返すと、ステラは笑い声を上げた。
「君は何か勘違いをしているみたいだね。僕はこう思ったんだ……君は、僕と同じ立場たるに相応しいかもしれない、と」
「……なに、」
「いや、同じ立場ではないか。僕の召使いかもしれないね。
世界を愛し、世界を憎んだ君に問おう。物語は好き? 物語を書くのは好き?」
物語、というワードに、錯綜していた思考は纏まる。舌が回り始める。眼球を動かせることに気がついて、ステラを見つめた。
「大好きだ」
「そう。じゃあ、僕と一緒に世界を創ろう」
「……そんな、私は死ぬつもりで」
「別にこのまま死んでもらっても構わないよ。でも、地獄に行く前に一度僕の世界に来て、面白い話を書いてみる気は無い?」
面白い話、と脳内で反芻した。
執筆は、私の趣味の一つである。それこそ恥ずかしいものではあるが、私にとっては執筆は生きる糧であった。私は自分の考えたことを形にし、表現することでしか自己表現はできないのだ。
銀色に煌めくステラの瞳。時の止まった曇天とコンクリートの灰色が私を嘲笑う。
黙っていても、私の心を見通すのだろう。私が思考に耽れば、口角を上げて笑んでみせる。
「面白い話は、書けないかもしれない」
「構わないよ。僕にとっては、人間の書くものはなべて滑稽で愉快だからね」
私の返答を聞くと、ステラは徐に足を進め、私に近づいた。そして、重力に従った私の重い体に触れる。その手は、氷のように冷たかった。
その刹那、世界は反転した。私は空に立った。逆に、ステラが逆さまになって嘲笑っている。
「では、『図書館』にご招待しよう」
グシャ、と音がして、私の意識はそこで途絶えた。
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