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目を覚ますと、まず感じたのはせり上がってくる吐き気だった。胃ではない、喉からの吐き気だ。ずきずきと痛む頭を押さえながら顔を起こす。
昨日──この閉鎖的な「図書館」の中に、時間経過を知らせるものは存在しないが──書いていた小説が隣に積まれている。椅子に座ったまま、机に突っ伏して寝ていたらしい。
「図書館」には、本以外はほとんど無い。ステラ曰く、物語の中に「校正」として入り、バグを起こさない程度に何かを持ち帰ってくることは可能らしい。ただし、物語に書かれない自我として、相手は自分を知ってしまうので、バグが起こりやすくなっているそうだ。
けれども、無論何かを生み出すこともできる。ここに来てからというもの、一日の大半は小説を書いているが、その合間には子どもらしくゲームをしたり、趣味だったベースを弾いたりしている。あまり大きい音を出すと、ヘッドフォンをしたステラに冷たい目で笑われるのだが。
当然、読書も暇潰しになる。誰が書いたわけでもない物語を読み漁れば、魅力的なものはいくらでもある。物語はインプット無しには書けず、他者と関わる機会を損なった私にとっては、物語との会話のみがインプットとなっていた。
「ステラ、新しい話が出来た」
「うんうん、蜜柑ちゃんは筆が速くて助かるよ。今度はどんな話?」
「才能が、石として現れる話だ。人々は生まれたときから、原石を持っている」
「凄いね、さながら能力主義への皮肉だね」
「私は常に、世界への皮肉を考えているからな」
ステラは口をオメガの形にして、黒い本を受け取る。世界の観測者たるステラは、同時に物語の読者でもある。私という作者から受け取った新たな世界を観測し、新たな物語を期待と共に開くのだ。私はできるだけその期待を裏切らないようにしているが、私はプロのライターではない、その質には自信が無い。
だが、物語を開いたっきり沈黙して物語を読んでいるのを見る限り、飽きさせてはいないらしい。ひとまず安心して休むことができるだろう。
ペンを起き、ようやく椅子から立ちあがる。ここに来て長いが、未だに食事だけは慣れない。食べたいと思ったときに自分で作る、否、創るのだが、その空腹があまり無いのだ。運動不足であることも要因ではあると思うが、元から体を大切にしていなかったのが祟っている。小説を書いているときは、空腹すら気にならなくなるからだ。最後にご飯を食べたのはいつだろうか。
黒い本に羽ペンで文を書き足す。
──私の前には、パンとウインナーと目玉焼き、トマトのサラダ、バターと蜂蜜、そして牛乳と、ごく一般的な朝食が並んでいた。
創り上げたフォークとナイフを片手に、トマトに手を付ける。私がまだ生きていた頃、こんな朝食は食べたことが無かった。朝は起きられないから、同じように起きられない母親と、朝食が無いことに怒鳴る父親を見ながら、買ってきた菓子パンを一つ口に突っ込み、それを朝と昼のご飯としていた。
まるで物語の主人公が食べるような朝食が、今は愛おしい。神様になって、やっと人間らしい味覚を取り戻せたような気がする。
私にとって、この「図書館」はとても居心地の良い場所であった。毎日ベッドに戻るのも忘れて、机やベッドで寝て、気持ち悪くなって起きるのですら、今の私には幸せで仕方が無い。思っていることを抑圧する必要も無く、物語として表現できる。あるときはファンタジーとして、あるときは日常ものとして。外に出たければ、栞を挟んで遊びに行けばいい。時には他人の世界を当てもなく彷徨って、月の下で歌う。私が幼い頃は、家で物音を立てるのすら許されていなかった。
誰も、学校に行けと強制しない。好きなことをしても怒られない。誰かの機嫌を損ねて殴られることも無く、泣き喚かれることも無い。誰かに期待する必要も無い。
ステラに声をかける。返答は無い。私の物語がお気に召したようだ。
「少し、本を読みに行ってくるから」
さっさと食器を片付けて、少し遠い本棚に向かう。
物語に介入する特別な栞ではなく、幼い頃から大切にしていた押し花の栞を挟んでいた本が、二冊ある。どちらも日常ものなのだが、非常にキャラクターが魅力的なのだ。
悲しいのは、そのどちらもキャラクターは死んでしまうことだ。葛藤し、嘆き、最終的には志半ばで死んでしまう。されど、その若々しさは人を惹きつける。何度読み返しても飽きない、読むたびに理解が深まる、一筋縄ではいかない人間だ。このキャラクターも、描かれない悲鳴を上げたり、描写されない葛藤に苛まれているのだろうか。
きっと私は、キャラクターが生きている感覚がたまらないのだろう。
「笑わないで!」
突然、耳元に声が降ってくる。振り向いても誰かがいる気配は無い。まだまだ若い少女の声だ。
「私の努力を、悦楽に使わないでよ」
今度は、違う少女の声だ。先程の少女の声が少しハスキーだったなら、今の少女の声は少し高くて澄んでいる。どちらも、あたかも私のそばで話しているかのような声だった。
目線は本へと落ちる。手に持った二冊の本は、何も語らない。静寂が留まるだけだ。
寒気の代わりに、芯が震える感覚に襲われる。体は慄くが、心臓は決して怯えていない。こめかみが冷たいのに、頭は熱い。言語化できないこの動揺は、興奮にも、戦慄にも、驚愕にも似ていた。
嗚呼、なんと生きた声だろう!
私に、「読者」に語りかける、叫び散らす、鋭い声だ。私に、何かを望んでいる。
冷えて鎮まった水面に、彼女らの叫びは波紋を作る。銀色の空間に、叫び声がこだまする。私を呼んでいるのは、この本にいるキャラクター、人間だと確信した。
ならば、聞かねば。弱々しい、長い溜め息を吐く。これは、私に聞こえてきた声なのだから。
黒い本を二つ抱え、踵を返す。黙って読書に没頭するステラの元に戻り、声をかける。今度は、気だるげに振り向いた。
「なに、そんなに慌てて」
「ステラ。ここに、二人ほど呼びたい人間がいる」
「なぜ? 何のために?」
「彼女らは、生きているんだ。私を認識し、語りかけてきた!」
はぁ、とステラは呟く。私の物語にペンを挟んで机の上に置くと、いつもの猫のような表情に戻って私の方を向いた。
「いいと思うよ。僕が君を連れ込んだのも、君が僕に気がついたからなんだ」
「気がついた……? 私は、そんなつもりは無かったが」
「勿論、それだけじゃないよ。でも、僕には君の悲鳴が聞こえたんだ。だから、連れてきてごらん」
なるほど、面白そうだったから連れ込んだということだろうか。私は語りかけた記憶も無いのだが。
いずれにせよ、許可がとれたのは良いことだ。連れ出すというのは、私が物語に介入することで成り立つのだろう。そこで契約を結び、「図書館」へ飛ぶ、と書けば良いだけなのだ。
また読書に戻ったステラから離れ、本に栞を挟む。二人が死んでしまう、その直前へ飛ぼう。物語にバグを起こさないように書き換えて、彼女らを攫うのだ。
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