幕間:『ルサンチマンは知らない』

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 美琴は賞状を見つめ、大きく溜め息を吐いた。  帰りのホームルームが終わり、クラスメート達の彼女への興味が尽きると、彼女は三時くらいに少し冷えた図書室へと足を運び、日差しが差し込む窓際で原稿用紙を広げた。自分がコンクールに出したものの草案である。  今回の物語は美琴が考案したものではなかった。最初に出来上がった、すなわち草案に書かれているものは近未来世界で、異種間のラブストーリーだった。とある心を閉ざした男がある日、人体実験の末に生まれたキメラの女性を見つける。世間に迫害されながらも、キメラなりの価値観に惹かれ、次第に心を開いていくという、少女漫画に寄りすぎず、ライトノベルに寄りすぎない物語だ。けれども、それはすぐに美琴の父に却下されてしまった。  美琴の父は名を上げた作家であった。父の下には、現代には似つかないが、数人の弟子もいた。  父は有り触れたミステリー小説で人気を集めている。読者層は主に大人の読書家で、子ども向けでは扱えないような性の関係、薬物などの取引なども描いている。少し背伸びした子どもは読むかもしれないが、きっと飽きてしまうだろう内容だった。美琴もその一人で、大人の俗な社会を反映させたミステリー小説に面白みを感じたことは無かった。すると父は、青二才なお前には分かるまい、と弟子と共に笑ったのだった。  天羽家は教えが厳しく、古典的な教育がなされていた。父が書くような俗的な小説は読まされなかった。彼女が興味を持った小説はライトノベルのような俗的なもので、すぐにからかわれ、捨てられてしまった。アニメも漫画もオタクの見るものと言われ、大抵の小説も勉強の邪魔とて取り払われてしまった。彼女は従順に笑顔で両親の言いつけを守り、勉強の合間には大人が読むような純文学を読むような子だった。儒学を重んじた父の影響で、彼女は両親への反抗を認められなかった。  その中で、美琴は純文学に魅入られるようになっていった。同時に、学問を身につけるという条件で、神話や宝石、歌など、様々な分野について学ぶことを許されていった。すると、味気ない勉学よりも煌めくような知識と世界観が彼女を次第に変えていった──私は、私が、小説を書きたい、と、明確に意志を持たせた。戒律的で閉鎖的な世界から連れ出してくれた本や知識という世界に、敬意を持ちたいと確信させた。  そして、厳格な父が先に立つ道を、あえて選んだのだった。  草案を読み終わると、時計は五時を指していた。図書室の閉館時間である。  そろそろ帰ろうと腰を上げると、背後から国語科教師の声がした。美琴のクラスは持っていないが、同じ学年を持つ教師だったので、彼女も面識がある。図書室に似合わぬ大きな声で話しかけてきたのを聞いて、彼女は一度眉を顰めたが、すぐに振り向いて笑顔で応対した。 「天羽、コンクールで優秀賞をとったらしいな。僕も読ませてもらったよ」 「光栄です」 「あれはまさしく『天才』って感じの文章だったな。才能があるなら言ってくれれば推敲くらいさせてもらったのに」  美琴は一瞬身体が凍りついたような感覚を覚えた。上げていた口角が動かなくなり、目を泳がせる。  新人の男性教師は、純粋に彼女を褒める言葉を続けた。身振り手振りで大げさに伝えようとする教師を見ながら、彼女はロボットのように一定の返事だけをしていた。  やがて語りたいことが終わると、教師は司書に言われて図書室を出ていく。それまでの時間を、彼女は空白の時間であるかのように捉えていた。振り向きざまに若い司書が美琴に柔らかく微笑みかける。 「入賞おめでとう、天羽さん」  美琴は再度口角を上げようと努めたが、作り上げたのは硬い機械的な笑顔だけだった。  彼女は、自分がいかに笑うことが苦手か思い知らされる。自分の歌の実力を好んで付き合い始めた彼氏・蓬莱香月にも、それを指摘されたことがある。 「お前、ほんっと笑うの下手だよな……俺、褒めてるんだけど」 「なっ、悪かったですね!」  本当に、笑うのが下手なのだ。褒められて笑うことができないのだ。  それを過去の災禍とみなして、美琴はその場をやり過ごそうとした。草稿を片付けて、立ち上がる。  背後には、真っ赤な泣き散らかした夕日が差していた。
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