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うーん、どうなんでしょうねぇ、と言って愛の原稿に目を通していたのは、神崎美香だった。
美香は愛の一年後輩であり、自身はあまり小説を書きたがらないが、優れた作品を作り出す一人である。彼女はミステリーよりもホラーを好くが、人間の裏側を書くのが好きなのは愛も彼女も一緒である。
放課後、愛は演劇部の部室へと足を運んでいた。無論、美香に会うためである。二人は同じ演劇部で、学年が違う以上、学校で会うとしたらこの教室くらいだった。美香が小説を読む間、教室があまりにも人気も無く涼しいので、ジャージを羽織っていた。
一通り読み終わると、美香はやけに高揚した口調で愛の小説についての講評を始めた。
文体、構成は荒々しいが、同時に感情が荒々しく書けている。描写は足りないが、テンポはいい。設定が作り込まれている——等々、彼女は的確に愛の短所と長所を突いていった。
勿論のこと、愛は納得していたのだが、まだ心に残るわだかまりは消えていないような気がして、ただただ俯いていた。
「僭越ながら、評価をさせていただきました。でも、貴女が求めているのは『これ』じゃない気がします」
「え、そう思うか?」
「はい。美琴先輩に比べて、何が足りないか、でしょう? きっと貴女がお気に召すのは、こういうことじゃないと思うんですよねぇ」
美香は猫のように目を細めてクスクスと笑った。
愛はその姿に、不快とも快とも言い切れぬ妖艶さを感じた。嫌悪が湧くでも、共感してもらえた喜びが湧くでもなく、答えに困っていた。彼女の中では、美香の言うことは正しいのだが、確信的な正解が見つからずにいたのだ。頷くことはできるが、ならば何を欲する、と聞かれても答えることができない。星を散りばめた黄色の瞳が純粋にこちらを見つめ続けるのに、彼女は冷や汗を流していた。
「私には何が足りないのか分かっていますが? けれど、貴女が自覚できないことに問題があると思いますよ」
「自覚……しているつもりなんだけどな」
「美琴先輩に自分の小説、見せたことありますか?」
あまりに唐突な質問に、思わず詰まってしまった。
愛は数週間前のことを思い出した。彼女が美琴に、コンクールには出さなかった小説を見せたときのことである。
消しゴムで消した跡や少し折れた跡のあるような、原稿用紙を纏めたものを読んでもらったのだ。美琴は数十分黙って小説を読んでいたが、最後の紙を読み終わると、ぱっと顔を上げ、明るい笑顔で、いい小説ですね、私も大好きです、と笑いかけたのだった。彼女からすれば、尊敬する美琴に褒められたことが畏れ多くて、顔を上げることができなかった。
彼女はしばしば、美琴の度量の大きさに感服する。時折、美琴は彼女を謙虚にしてくれる。どんなに拙い文章であれど、美琴は平等に読み、感じ入ってくれる。それは美香も一緒であった。ゆえに、今回の小説を美香に見せに来たのだった。
読み終わると、ふふふ、と気味の悪い笑い声を上げた後、星を詰めたような黄色い瞳を細めて、貴女らしくてとても好きです、と言った。けれども、美琴のときとは違い、年齢差もあるだろうが、畏れ多くなったり、いたたまれなくなることは無かった。
回想に暫時浸った後、愛は、あるよ、と答えた。
美香はじっと彼女の目を見つめた後、再び笑った。小説を読み終わったときのような、裏のある不気味なものである。彼女は、しまった、と思った。それがなぜかは分からない。まるで、壊れたおもちゃを見つかった子どものようだった。顔から血の気が引く。
慌てて弁解しようと美香の名前を呼ぶも、遅いんですよ、と美香はけろっと言ってみせた。
「あはは、美琴先輩のことを見下してるだなんて思ってませんよ。貴女にはそんなことはできやしない。顔に書いてありますよ」
胸を撫で下ろしたと同時に、唐突に思考が止まった。愛は黙り込んで口を結ぶ。
美香は紅茶を静かに飲むと、首を傾げてみせた。愛は思った、全てお見通しなのかもしれない、それはまさしく千里眼使いのようで──美香は愉快そうに口に手を当てて肩を揺らすと、少し低い声で続けた。
「あぁ、こう言って差し上げましょうか。貴女は美琴先輩に嫉妬している。貴女は彼女の努力を踏み躙ろうとしている。彼女と何が違う? 俺はどうして愛されない⁉ どうして報われない⁉
『どうしてあの子だけが認められて、私が認められない⁉』」
美香は、固く微笑んだまま畳み掛けるように言った。
冷たい、と感じた。体が凍っていくかのようだった。自分の心という水の入ったグラスの中に黒い絵の具を垂らされたような気になった。
透明な水の中に黒い絵の具が形を作って、徐々に細い軌跡は広がっていき、水を黒く染めていく。やがては綺麗だった透明が、黒一色に変わっていく──それを他人事のように見て、彼女は酷く怯えた。
違う、と否定する声は表には出ず、自分の中でこもって反響するばかりだ。彼女はただ、美香が嘲笑する姿を凝視していることしかできなかった。
「でも、貴女は美琴さんのことを否定も妬みもできないでしょう。だって、謙虚なんですもん。何にも染まらない、白い白い、謙虚なんですよ。謙虚でなくては貴女ではない? 私には言い当てることしかできませんが」
「……謙虚?」
「嗚呼、でもそれじゃあつまらないじゃないですか。ちっとも愉快じゃない。不完全燃焼の燃料では汽車は上手く走りやしません。吐き出せばいい、ただ吐き出せばいい。簡単なようで難しいことですが、表に出すことで貴女の悩みは和らぐでしょうね」
不完全燃焼の燃料、と脳内で反芻した。愛は未だに美香が喩えたそれを、またも遠くから見ていた。
黒く染まった水の入ったガラスは、見てておぞましいものだったが、自分の心とは到底思えなかった——認められなかったのである。傾き始めた太陽に照らされて煌めく透明と、煌めかない漆黒とを、まるで芸術品のように——むしろ、他人事のように眺めていた。その悍ましさに驚嘆した。
黙った愛を見つめていた美香も、彼女から何の言葉も出ないのを見て、小さく溜め息を吐いた。ミルクティーを掻き混ぜながら、重症ですね、まるで洗脳です、と呆れたように頬杖をつくのを見て、愛は申し訳ないと感じていた。
「まぁ……でも、当たっていたでしょう?」
「多分、当たってると、思うよ。でも、なんかまだ実感が湧かないというか」
「そこが捻くれてるのです。ならば、美琴先輩にでも小説を読んでもらえば良いのです」
「美琴さんに?」
「何が足りないかなんて、彼女しか知らないと思いますから」
美香はそう言って席を立つ。愛もつられて立つと、美香は普段の笑顔に戻って彼女を呼んだ。
「きっといい出会いになるはずですよ」
「いい出会い?」
「美琴先輩に会ってからのお楽しみです」
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