幕間:『ルサンチマンは知らない』

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 帰路の空は重く暗く、塾帰りの住宅街を歩く美琴は、重たい足を動かしていた。  人通りはあれど閑散とした住宅街は、かえって秋の涼しさを助長して冷えている。美琴の家には弟子が集まっているゆえに、いつも酒を飲んだ弟子と師匠が騒がしく宴会をしていた。だから、静かな住宅街に唯一美琴の家からの騒音が聞こえてくるのである。  家に着くと、やはり騒がしい声が聞こえてきた。美琴は帰ってくると、一度自室に戻ってから食卓へ向かった。夕ご飯の準備は済んでいて、シワの増えた母が神妙な面持ちで座っている。彼女はまず叱責を覚悟したが、母は細い目で彼女を見た瞬間に破顔した。美琴、と彼女を呼ぶ声を聞いて、彼女は喉元まで迫り上がる吐き気を催した。懸命に笑顔を作ると、母は興奮して畳み掛ける。 「あんた、賞取ったんだって? さすがお父さんの子だねぇ、お父さんにも見せてきなさい」 「……優秀賞だから、何でもないよ」 「何言ってんの、お父さんから才能を継いでるって証明されてるじゃないの。ほらほら、お父さんきっと喜ぶから」  あはは、と笑ったが、美琴の脳内ではヒキガエルがないたような自分の声を聞いていた。  彼女はすぐに目を逸らして、わかった、と呟くと、母に背を向けた。賞状を取りに戻りながら、ますます辛くなる吐き気に思わず蹲った。食道を握り潰され、食べた物が上がってきてしまいそうだ。  気味が悪い。気持ちが悪い。  普段は父を持て囃し、私を貶していた母が、笑顔で私を褒めている。私の趣味を笑っていた母が、文句無しに褒めている。なんと不気味だろうか。  彼女は賞状を目の前で粉々に破り去ってしまいたい衝動に駆られた。  大きく息を吐くと、美琴は静かに立ち上がった。しんと静まり返って暗い部屋の階下からは、豪快で下品に笑う酔っ払いの声が聞こえてくる。徐に階段を降りていくと、おう、と彼女を呼ぶ父の声が聞こえた。彼女は片手に賞状を丸めて持ち、俯きがちで入室した。すぐにアルコールの臭いが鼻腔に届く。 「お前、賞をとったんだってなァ」 「添削してくれたお父さんのおかげです」 「いい娘に育ちましたねェ」  敬語で無感情に答えると、それだけで父は満足げに笑う。今までのように。無感情な人形として。何も言わぬいい子として。  そうかそうか、とグラスを片手に笑う姿は、美琴の目には笑い声だけで地響きを起こしてしまえるような醜い魔王にさえ見えた。というのも、もしも彼女が無礼にも、自分の力で、と答えていたならば、すぐに角ばって大きな手が美琴の頬を叩いていたからだ。そして、周りにいる弟子達は魔王の臣下である。まるで年頃の娘のように同調するばかりで、中身の無い物語しか書けないと、彼女はそう感じていた。  男達が賞状を回し終えると、しかしなァ、と父は低い声で呟いた。美琴は次の攻撃に備え、口を結んで父の方を見据える。 「あれ、結局お前が書き直したんだろう」 「お父さんの言ったとおりに書きました」 「んなわけねぇだろ、あんな没個性なのは俺達の文章じゃねぇからな」  没個性、と言われたとき美琴は、はっと顔を起こした。一歩踏み出しそうになって、強く拳を握って足を止める。弟子達が笑う。父も豪快に笑う。彼女は目の前がぐるぐると回っていくように思えた。返事をせずに俯いてスカートの裾を握っていると、父が別の話題に移る。  彼女はその様を伺った後、踵を返して食卓に向かい、鉛のような味のする重たい食事をとった。母は上機嫌で彼女の才能を褒め称えた。あぁ、やっぱり、神話も宝石も歌もこのためにあったのね、洗練されたものを教えることの大切さを学んでもらえたわ、よく育ったね、才能ある子に育ったね──彼女はそのほとんどを、バックグラウンドミュージックのように聞いていた。彼女自身の気持ちを示す、最高に適した音楽である。  白米を掬う箸はスピードを落とし、彼女は口角を下げてつまらなそうに口を開けている。母は口角に泡を溜めて楽しそうに話を続ける。不恰好な食卓は、彼女の、ごちそうさま、の声で静まった。  階段を上りながら、美琴はふと、昔のことを思い出す。  彼女は中学生になってから小説を書き始めた。しかし、自分の書きたいように書いたものは、到底純文学の類とはいえず、まだまだ拙いものであった。最初は父のいる前で書けまいと、勉強の後に一人で部屋にこもって筆を走らせていた。言葉は辞書無しでは見つからないが、書きたいことは止まらない。  神話も歌も宝石も、世の中の美しいものを全て書き表したい。全てを、親の支配など考えずに、自由に──滅多に笑わなかった彼女は、小説を書いてるときは口角を慣れない様子で上げて笑んでいたのだった。  されど、ある日のこと、美琴が帰ってくると、父と母は彼女の小説が書かれたノートを机の上に置いて話していた。しかも、笑っていた。彼女は顔から血の気が抜けていく感覚を覚えて、わなわなと唇を揺らした。  すると、二人は笑顔で彼女の方を向く。彼女にとって、二人の機嫌がいいときは何も言われないので幸せだったのだが、このときばかりは叱責されるときより怯え上がっていた。はい、と震える声で答えて椅子に座ると、母はまるで何かに取り憑かれたかのように元気な調子で話し始めた。 「あんた、才能があるのね」  最初、美琴は歓喜した。俯いていた顔を起こして、硬直していた表情筋を緩めた。それが隙になってしまった。 「いやいや、無いだろ。癖が強すぎて好き嫌い分かれるやつだろ」 「そんなこと言わないの。美琴に小説、書き続けてほしくないの?」  美琴は、起こした顔を力強く押されて首を折ってしまったかのような気分になった。酷い閉塞感を覚えて、彼女は口を閉じたまま宙を見つめていた。  昔の彼女にとっては、両親が言うことこそが正しく、言うことを守れなければ罰せられる——勿論、体罰だけでなく、口撃が大半を占める——ものだと当然のように信じていた。だから、反論の余地は無い。私には才能があって、褒められているのだ。 「まぁ、他の人に読んでほしかったら、他の人でも真似たらいいんじゃないか」  二人からすれば、まだ幼気な文章を書く彼女を可愛がっていたつもりなのだろう。  美琴は、また身体が冷えていくのを感じて、ありがとうございます、と答えた後、まるで他人のものになってしまったかのように重たい足を動かして、自分の部屋へと向かっていったのだった。  今、美琴は自室で自分の書いた小説の山を眺めていた。ゴミ箱には、何度も何度も文章を書き直した跡が紙屑となって残っている。  机の上に綺麗に積まれたノートの数々は、幾度も情報収集をした筆跡がある。何度も何度も参考に読み込んだ本が、勉強机の上にはきっちりと収められている。  埃一つ無い机を眺めながら、彼女は白く細い手を震わせて、原稿用紙の一つに触れた。  大きく藤紫色の目を見開いて、顔だけは凍りついたようにして、文章を読み取った。一つ一つの言葉が洗練されていて、矛盾の無い、乱れの無い文章だ。何一つ表現に狂いは無いが、感情も無い、酷く冷たい文章だ。彼女は、自分の小説の評価を思い出す。第三者から見た世界が美しく描かれていて、作り込まれた構成が目を惹く──誰一人、彼女の感情について触れなかった。  何故ならば、それこそが彼女が押し殺して、没個性の型にはめ込んだ形跡だからだ。  美琴は、躊躇い無く、原稿用紙を破いた。  一つ破くと、さらにもう一枚、もう一枚と破いた。はらはらと紙片が足元に落ちていく。  音の無い部屋には、紙が破れて悲鳴を上げる声だけが響いていた。  もう一枚、もう一枚。  文章を読み次第、破り去る。頬に熱い涙を伝わせながら、ただひたすらに、手だけを動かしていた。見える分の原稿用紙が無くなると、肩を揺らしてしゃくり上げ、腕を投げ出した。  ゴミの山の中で、美琴は蹲った。声を上げずに涙を零した。月光に照らされた暗い部屋に、殺された物語の死体が置き去りにされていた。
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