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プロローグ
ホールへと続く廊下には、賑わった人の列が続いている。聞こえてくるバックグラウンド・ミュージックのベースの音が、人々の心音をエンハンスしている。ユニフォームを着ている学生から、しっかりスーツを着込んだ先生、白髪の目立つ民間人、小太りの主婦まで、ドラムの音に合わせて期待を膨らませているのだった。
この先で行われることは何か? 吹奏楽部の演奏会? 軽音楽部のライブ? 合唱部の演奏会? どれも違う。たった十数人が織り成す、演劇部の公演だ。
この僕・冷泉晃は、別に演劇に興味があって、この人混みを縫って歩いているわけではない。僕は確かに物語が好きだ。だが、好き好んで人混みに出るくらいなら、図書室の隅で本に囲まれて、涼しいクーラーの下でインクの香りに酔っている方がマシだ。
全ては隣でにやにやと笑っている女──人は彼女を「お姫様」と呼ぶ──桜庭睦のせいだ。ごく普通の本の虫の隣に置くには、些か端正すぎるのではないかと思わされる。その豊満な体つきも、長くさらさらな黒髪も、赤と青のオッドアイも、他人に紛れるにはちっとも向いていない。
「あらあら、随分賑わっちゃって。あのイケメン君のせいかしらぁ」
「だろうね、『お姫様』。何でこんなところに僕を連れてきたんですかねぇ」
「だぁって、この学校の顔みたいなものじゃあない、演劇部って? 新聞部員としてはちゃあんとネタを集めないといけないでしょう?」
「だからって僕を起用する必要は無いのでは。相方が休みだからって、普段関わってない僕を選ぶのもどうかと思うけど」
「『王子様』、アナタだって美香ちゃんにスカウトされた一人でしょお?」
「まぁ……そうだけど……」
「王子様」だなんてあだ名を付けたのは、睦が言及した女子生徒・神崎美香だ。僕らの一学年下の彼女は、僕と睦を演劇部にスカウトした。無論、僕は即答で断った。人前に出るなんて御免である。
お姫様こと睦もスカウトを断ったらしい。彼女は「放送部の姫」だ。オタサーの姫みたいなものだ。彼女には充分居場所がある。
とはいえ、演劇部に興味が無いわけではない。先に述べたとおり、スマートフォンを眺めながらがやがや騒いでいる人混みに紛れねばならないこと、そして僕が新聞委員の補欠に選ばれたことを除けば、むしろ肯定的だ。
この学校・神崎光が丘高校の演劇部は、二年前に全国大会に出場したっきり、この学校の顔の一つを成している。ただでさえ関東のエリートが集まるこの公立高校において、その中でも一際光る部活動となっている。
その人気を博したのは、怪演で有名な龍宮寺未音・諸星凪コンビ、名シナリオライターたる天羽美琴・音無風香・八神友梨、衣装デザインを手掛ける結城流風・東雲柚子・雲母奏のおかげであり、そして何より、今年度入学した絶世の美人たる榊原瑠衣拓兄弟に後押しされている。
自分たちで生み出した物語を、自分たちで完成させる。専任のコーチがいるにはいるのだが、この高校の特徴どおり、ほとんどは生徒たちの自主的統治が行われている。
「舞台袖で写真が撮れるのよぉ、これはチャンスよぉ。一面榊原兄弟の写真にしたら楽ができるわぁ」
「楽することしか考えてないんすね」
「当たり前じゃなぁい! ほら、今のうちに行くよぉ」
「あー、はいはい、今行きますって」
睦に手を引かれ、人混みの間を縫う。幕の降りたホールには、もう多くの人が座っていた。人の頭が黒い列を成している。僕らはそんな横を通り抜け、非常灯の灯る暗い廊下を駆けていく。
控室から白い光が漏れている。この先にいるのが、怪演を成す小さな天才たちだと思うと、思わず息を呑んでしまう。美琴や友梨といえば小説で賞を獲る天才だし、凪に関してはフリーゲーム制作でネット上でも有名人だ。拓馬は学校随一の秀才であり、全国模試でもトップクラスの成績を残していると噂されている。
まぁ、こんなことを知っているのは、僕と睦が「情報屋」と呼ばれていて、それに美香が目を付けたからなのだが。
僕は多少勉強ができただけの凡才だ。確かに中学生のときは学年でトップを獲っていたけれど、才能ではなくて努力で成し遂げたものだ。高校に入ってから、本物の天才を目の当たりにして愕然とした覚えがある。
呼吸を整える僕に、何ビビってんのよぉ、と甘ったるい声で言う睦。普段猫を被っている可愛らしい笑みなどでは全く無い、軽蔑を全面に出して眉を寄せた顔。誰だ此奴をお姫様と呼んだのは。
睦は躊躇無く銀のドアノブを回す。失礼しまぁす、と間延びした声と耽美な笑顔で控室を開く。すると、中にいた、衣装を着込んだ生徒たちの目線が集まる。嗚呼、人前は苦手なんだ、慌てて睦の後ろに隠れる。
「まぁ、王子様にお姫様じゃあありませんか!」
「御機嫌よう、美香さん。新聞委員とその補欠でーす、今日は舞台袖から撮影させてもらいまーす」
「あっ、そっか。ごめんね、先に挨拶しておくべきだったね。よろしくお願いします」
美香がひょこっと顔を出し、黄色く丸い目をきらきらと輝かせる。瞳の中に黄色い星を詰め込んだようだ。あの目で見られると弱いので、僕は控えめに、こんにちは、と言うに尽きた。
挨拶をしてくれたのは部長の風香だ。黒いお下げを揺らし、ぺこりとお辞儀をする。自分より背が低いのに、独特の雰囲気を持っている。ミステリアスを絵に描いたような、優雅な笑み。水色の目が細くなれば、穏やかな水面のようだ。
見回してみると、二人ほど制服を着ている生徒がいる。美しい衣装に身を包んだ中では、二人だけが浮いている。美香や瑠衣、拓馬と話し込んでいるようだった。
片方は茶髪のイケメン、もう片方は赤毛のお嬢様。二人も二人で有名人だ。かたやイケメン天才ピアニスト・山神修哉、かたや本物の令嬢・宇賀神紅璃。黒いドレスに身を包んだ美香は、白いワイシャツを着た二人からやや浮いて見えた。
「見に来てあげたわよ。感謝しなさいよね」
「いやー、楽しみにしてたんだよ! 拓馬が医者って聞いてびっくりしたぜ! 超似合ってるよ! 美香ちゃんも良い格好じゃん?」
「あらまぁ、ありがとうございます。拓馬君、呼ばれましたよ」
「ん……あ、う……? 何、修哉」
黒い漆黒のドレスは、美香の常人離れした体をより一層細く見せている。これをデザインし、縫い上げた装飾部門には舌を巻く。
話題に出た拓馬は、まぶたを持ち上げ、ぼんやりと答えた。医者と呼ばれたとおり、彼は見た目重視の前を開いた白衣を着ている。
彼の反応が朧げなのにも、ちゃんと理由がある。怪演で有名なのは凪・未音コンビと述べたが、なんとこの男もまた怪演で有名なのである。一年生の処女作『人狼村の悲劇』では、自分の主人──これは、瑠衣が演じた──に陶酔する狂人を演じきってみせたのだ。台本を食い入るように見ている彼は、おそらく今も役に入り込んでいるのだろう。
美香は狂ったシスター、瑠衣はサイコパスの御曹司。悪役を演じきった一年生三人組は、いわば才能の塊なのである。
「ところでなんですけどぉ、今回は誰が主役なのかしらぁ?」
本番前の緊張感を考慮すらしないらしい。お姫様は赤と青の目を細め、口角を三日月の形にした。
声に反応したのは風香だ。彼女は桃色のワンピースに身を包んでいる。モノクルをしているが、それだけでは役は想像できない。
「ふふ、それは内緒。でも、凪ちゃんや未音ちゃんには注目だよ」
「えー、責任重大だぁ! みおにゃん、頑張らないとねぇ!」
「あはは、凪さんは問題無いでしょうよ」
凪はおっとりと答え、紫の民族衣装の裾に目を落とした。未音は紫のドレスに黄色いパーカーを羽織り、眼鏡を掛け直す。二人のやり取りに緊張の色は全く無い。三人の三年生トリオの安定感には、見ているこちらも圧倒されるばかりだ。
さて、二年生に目を向ければ、緊張で上がっている生徒も数名見受けられる。顔見知りといえば、図書室によくやってくる美琴だろう。狐のお面と緑の着物がよく似合っている。その隣にいるのは、およそ高校二年生と思えない背の高さを誇る友梨だ。こちらは白いワンピースに桃色の帽子、首から下げているのは一眼レフだから、記者の役なのだろう。
「うわ、緊張してきた……全然慣れないんだよな……」
「まぁまぁ、気楽にいけばいいんじゃね?」
そんな会話を交わしているのは、竹刀を持った青の着物の女子・小鳥遊愛と、茶髪が印象的な女子・雲雀杏だ。見ただけで剣道家だと分かる愛と、青のドレスだけではまだ役が掴めない杏が並んでいる。とはいえ、杏は見た目が良いから、モデルとか女優とかそこらへんの役なのだろう、知らんけど。
睦に連れられるまま話しかけに行ったのは、衣装担当三人組だ。流風・奏・柚子が並んで最終確認をしている。桃色のカーディガンにグレーのワンピースを着ている奏はさながらお嬢様だし、その隣に控える緑色の民族衣装に身を包んだ柚子は召し使いといったところだ。流風はというと、伊達眼鏡を掛け直しては、頭に付けた服の色と同じ深緑のリボンをきゅっと結び直している。
「衣装担当三人組よねぇ? 今回も凝ってるのねぇ」
「あ、ありがとうございます……って言っても、ほとんど市販で買ったものを組み合わせてるんやけど……作ったのは民族衣装系とドレスくらい……?」
「裁縫は私と柚子ちゃんが、デザインは流風さんがやってくれるよ。いつもありがとうね!」
「そんなー、私の性癖をそのまま出してるだけだしー。お金を出してくれる先生と、裁縫を手伝ってくれるみんなに感謝だよー」
睦がインタビュアーらしくメモを取りながら聞いている一方で、鏡越しに映る僕の紫と銀の目は死んでいる。疲れ果てて青く沈んでいる。いや、だって知らない人だらけだし、美香は自分の友人と話しているし。
だが、こうして一通り演者を見て回ったところで、何を演じるかは分からない。なんと、今回の演劇は、タイトルもシナリオライターも未公開なのだ。前回、部長によって書かれていたシナリオは、事前にサスペンス・ホラーだと知らされていたが、今回もそのような路線でいくのだろうか。
などと考えていると、風香が演劇部員に声をかけ始めた。修哉や紅璃が一言二言話して部屋を出ていく。睦も僕の袖をちょいちょいと引っ張って、出ましょうかぁ、と呑気に言った。
「では、舞台袖で見てます。頑張ってください、僕らも応援してますので」
「かっこいい写真撮りますよぉ、写真部に負けないくらい」
「うん、ありがとうねぇ」
僕らの言葉に答えた凪が、僕らと同時に部屋を出る。向かう先はステージ上だ。開始前の挨拶は彼女によって行われるらしい。共に向かう廊下は暗く、三人の足音が鼓動を打ち付けて緊張感を与える。
赤い絨毯の先、フットライトの先に、友梨や流風、杏によってセッティングされた舞台がある。凪はその真ん中に立つと、天井を見上げた。僕も思わず上を向く。
小さな吐息の後、凪は、新聞委員さん、と静かな声で僕らを呼んだ。睦と僕は、舞台の真ん中に立つ凪に目を奪われる。
妖艶に微笑んだ彼女は、才色兼備に満ちた黒揚羽のようだった。
「楽しみにしててね」
幕の外に出ていく凪が、マイクを持つ。スポットライトが当たる。人々が黙り込む。
誰もいなくなった舞台上を見て、僕はそこに、天才が残していった残滓を見ていた。
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