シニガミ少年

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シニガミ少年

「おばあちゃん、来たよ」  扉を開ける。意外にごちゃごちゃと物が溢れている病室の真ん中に置かれたベッドの上で、おばあちゃんは微かにすっかり薄くなった胸を上下させながら眠っている。くっきりと出た首の筋に、痛々しさすら感じる。私はそれを確認して一息つくと、教科書がパンパンに詰まったスクールバッグを放り投げて、ベッド脇の小さな丸椅子に座った。 「今日はね、月が綺麗なんだよ」  勿論返事はなく、私は力なく投げ出されたしわくちゃの手に自分の手を重ねた。窓の外にはぽっかりとまん丸の月が浮かんでいる。初冬の澄んだ空は雲ひとつなく、淡い光が差し込んで病室内を照らしていた。  静かな、静かな夜だ。夜遅いからか、他の人の声は聞こえない。看護師たちも皆ナースステーションに戻っているようで、部屋の中は一定のリズムを刻む電子音が支配している。おばあちゃんの心臓が動いている証である電子音は、しかし酷く無機質で、私の言い様もない不安をかき立てた。 「絶対、目覚ましてくれるよね……」  いるのかも分からない、神様に祈るような気分だ。そんな私の思考を崩すように冷えた風が窓をゆらす。甲高い音とともに少し開いたその間から風が入り込み、カーテンが大きくたなびいた。冷たい空気が正面から顔に突き刺さり、思わず私は目を閉じる。カーテンが落ち着いた頃、ゆっくり私は瞼をあけ、思わず動きを止めた。 「──え……?」  私の視線の先、窓枠に足を引っ掛けて一人の少年がこちらを見ている。しかし、彼は私が見ていることに気づいていない様子でキョロキョロと室内を見渡した。 「──そろそろだと思って来てみれば、ちょいと早かったかもしれないな」 「あ…………」  恐怖と衝撃で声帯が機能しない。黒く癖のついた髪の毛に、心なしか赤く光るように見える瞳。簡素な布を羽織っただけの裸足の少年は、背中に輝く月も相まって浮世離れした雰囲気を醸し出していた。  この少年はどこから来たのか。窓から? まさか。ここは四階で、非常階段からも離れている。よじ登って来られるとは思えない。私が凝視していることに気づいたのか、彼は大きな猫目をパチクリと瞬かせて、幼気な表情を見せた。 「お前、オレが見えるのか?」 「あ……あなたは……」  彼はその問いに答えずに口元に笑みを浮かべると、ふわりと病室に降り立つ。そして私の視線を無視して枕元に行くと、顔を近づけてベッドを覗き込んだ。私は咄嗟に、その顔とおばあちゃんの顔の間に手を差し込む。 「……おばあちゃんに、何をしようとしているの……?」  声が震える。目の前の男からはこちらに危害を加えようという悪意は感じない。ただ、目を逸せない、逸らしてはいけないと思わせる不思議な威圧感に肌が粟立った。少年は困ったように眉を下げてしばらく悩んでいたようだったが、やがてため息をついて口を開いた。 「カワイケイコはもうすぐ死ぬ。オレはその命を『刈り』にきた」 「え……?」  たった二言。しかしその二言は、私を打ちのめすのに十分だった。 「河合恵子って……。おばあちゃんが……もうすぐ……?」  息が詰まる。電子音がやけに大きく聞こえ、脳を揺らす。私は目の前が真っ暗になって、耳を塞いで蹲った。 「おい……、大丈夫か?」  少年は心配そうな顔つきで私の顔を覗き込む。私は、その吸い込まれるかのような紅い瞳から逃げるように顔を背けた。呼吸がどんどん短くなる。喉の奥からヒュウッと音がした。少年は慌てて私の背後に回り背中をさする素振りをみせるが、手の感触はなく、ただひんやりとした感覚だけが走った。 「いやだ……」  私の蚊の鳴くような声に、少年は「困ったな……」と呟いた。 「お前を傷つけたいわけじゃないんだ……。オレはお前のオバーチャンに恨みがあるんじゃないから」 「じゃあどうして……」  少年はその質問には答えず、親に叱られている子どものような表情を浮かべる。 「……お前の名前はなんて言うんだ?」  その口調は、まるで迷子をなだめる大人のようだ。その大人と子どもが混ざり合った奇妙な雰囲気が、彼の存在感を引き立てる。私は、まるで彼に操られるように声帯を震わせた。 「か……河合聖月……」 「そうか。ミヅキには可哀想なことしちゃったなあ」  少年は頷きながら感触のない手を私の頭に乗せて、「でも、仕方のないことなんだ」と諭すようにはにかんだ。それを聞いた私の中で抑えていた何かが決壊すると同時に、面会終了時間を告げるアナウンスが病室内を満たした。  夜道に響く足音は一人分。大きな通りから離れた住宅街は、人通りがほとんどない。音もなく裸足のまま私についてくる少年は、並んでみると私よりも少し小柄だった。周りが誰もいないのをいいことに、私は水分が乾いて突っ張った頬を無理矢理動かして、掠れた声で問いかけた。 「どうしてついてくるの……?」 「そんなボロボロのミヅキを置いてはおけないからな。ミヅキは今、すごく追い詰められている。まだ終わるべきではない命が無闇に削られるのは、オレとしても本意じゃないんだ」  少年の表情はとても優しげで、私のことを本当に心配しているのが伝わってきた。しかし、前髪から覗く大きな瞳はますます妖しく輝き私を縛りつけるようだった。 「……おばあちゃんは、終わってもいい命ってこと……?」 「そうじゃない、順番だ。命あるものは必ず終わりが来る。今回カワイケイコにその番が来ただけだ。その最期を見届けて、肉体から刈り取るのがオレの役目」  少し高めの澄んだ声が夜の空気に溶ける。架空の物語を語るようなその軽やかな口調に、私は寒気を覚えて後ずさった。彼は進路を塞ぐように立ち、腫れた目で睨みつける私を気にすることなく、こちらに向かって微笑みかける。 「あなたは何者なの?」 「オレは何者でもないよ」  月に背を向けた彼の影はこちらに伸びてこない。 「名前は?」 「無い」 「じゃあ、あなたのことなんて呼べばいい?」  少年は腕を組んで「うーん」と唸った。 「オレはミヅキの元からすぐにいなくなる。オレのことなんて気にするなよ。それよりも、ミヅキにはやるべきことがある」 「やるべきこと……」 「ミヅキのやるべきことは、カワイケイコの死を受け入れること」  離れた大通りの方から車のクラクションが風に乗って飛んできて、静寂を少しだけ破った。身体が固まってしまってどこもかしこも動かすことができない。少年はそんな私に追い打ちをかけるように、さらに言葉を続ける。 「本来、オレの姿は人間には見えないはずなんだ。ミヅキにオレの姿が見えているのは、ミヅキが死を拒絶しているからだと思う」 「ってことは、あなたのことが見えている限りはおばあちゃんは生き続けてくれるってこと……?」  私の縋るような言葉に、少年は首を横に振る。 「オレには何もできない。ミヅキにできることも、何もない」  少年は決して目を逸らすことはなく、笑みを崩すこともない。少し下からまっすぐ見つめられて、固まっていた頭の中が途端に動き出す。脳内に様々な映像が、おもちゃ箱をひっくり返すようにぶわりと溢れた。なぜか揺らいでいく視線の先、目の前の彼がワタワタと手をしきりに動かしているのが見える。 「お、おい、ミヅキ、泣かないでくれ……」  そう言われてようやく、自分がまた泣いていることに気付く。前からやってきた帰宅途中であろうサラリーマンが、訝しげにこちらをチラチラと見ながら通り過ぎて行った。側から見れば、私は一人突っ立ったまま泣いているおかしな高校生なのだろう。慌ててワイシャツの袖で目元を乱暴にこするが、次から次へと涙が溢れてきて止まらない。  少年は変わらずオロオロと不安げにこちらを見ている。きっと何故私がこんなに泣いているのか分からないのだろう。こんなところで彼の異常さを実感して、私は痙攣する喉を押さえつけてむりやり深呼吸をした。 「──私はずっとおばあちゃんに育ててもらった。おばあちゃんがいなくなったら、私は一人ぼっちになっちゃうの。大切な人が死んじゃうのを受け入れろなんて、簡単に言わないで……!」  私の叫びは、静かな住宅街に響き渡る。膝の力が抜けて、地面にへたれこんだ。周りの目とか、もうどうだってよかった。相変わらず頭の中はいろんな映像で溢れてぐちゃぐちゃだ。 「おばあちゃんを連れていかないで……。私を置いていかないでよ……!」  もはや訳もわからず喚く私の頬に、冷たい感覚が伝わる。目を開けて滲む視界で前を見ると、少年の小ぶりな手のひらが、私の頬を包んでいた。 「ごめん、ごめんな」  酷く穏やかな声がごちゃ混ぜの脳に届いた。私が身動きをすると、感触のない手のひらはするりとすり抜ける。緩やかに私の頬を撫でながら、少年は語りかける。 「生きている人間と話すのは初めてだったんだ。ミヅキが泣いてるのを見てすごく困った。辛いことを言ってしまったようで、ごめん」  少年の声を聞いているうちに頭の中が少しずつ整理されていく。溢れかえっていた映像は、それぞれ元の引き出しに戻される。それと同時に腹の奥からふつふつと沸いてきたのは怒りの感情だった。唇を噛んで震える口元を押さえつける。 「あなたには、私の気持ちなんて絶対わからない」 「……うん」 「あなたは、シニガミだ。私から大切な人を奪うあなたのことを絶対許さない」 「うん」 「だけど、あなたのことなんか絶対にすぐ忘れてやる」 「うん。それでいいよ。ミヅキはとても強い子だな」  ずっと頬を包んでいた手が段々と透けていく。それに気付いた少年は、改めて私をまっすぐ捉えて、今までで一番嬉しそうに笑った。 「ミヅキ、受け入れてくれてありがとう」  人通りのない夜道に、崩れ落ちたままの私と放り出されたスクールバッグが残されていた。私はこすりすぎて痛みが出始めた目元を袖口で抑え、立ち上がる。先ほどよりも色濃くなった空に、少し傾いた満月はぽっかりと浮かんで輝いていた。  ブレザーのポケットに入れっぱなしのスマートフォンが、着信を告げて振動した。
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