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第1話 厩戸皇子
中臣鎌足は、常陸の国、鹿島の生まれだ。
父である、御食子が、祖父、可多能祜の神祇伯の職を受け継ぐために大和の国に戻ったため移り住むことになった。鎌足、七歳の師走の話である。
さざ波の音をいつも聞いていた鎌足にとって、海から離れた大和の地は、空気の香りからして異質な土地だった。
四方の山には神が住み、都には真新しい寺院が建てられている。そこら中に力があふれていて、鎌足は恐怖を感じたほどだ。
中臣の家は、太古の昔より、神と人をつなぐ要職についている。鎌足もまた、常人には見えぬ『力』を見ることができた。山や、大地、木、岩、全てのものに力は宿り、信仰を得て、さらに強い力へとなっていく。神代が過ぎ去って人の世になっても、力は依然としてそこにあった。むしろ人の世が複雑になるにつれ、その力は昔より強いほどだ。ただ、多くの人びとがそれを使うどころか見ることも感じることもできない。
正月が終わり、ようやくに落ち着いたころ。父に連れられて、鎌足は斑鳩の地へ向かった。斑鳩は遠い。いかに鎌足が子供にしては馬の扱いに手馴れているとはいえ、一日かかってしまう。
早朝に出立したのに関わらず、斑鳩の宮が見える頃には昼をとうに過ぎていた。
「あと少しだ」
疲れのあまり馬から落ちそうになった鎌足を、御食子が励ます。もっとも、御食子の顔にも疲労の色がみえる。天候が安定していたのは、幸いであった。
「日が傾く前に、たどり着けて良かった」
昨日、斑鳩の宮に住む、皇太子の厩戸皇子から内密に呼び出しを受けた。しかも、呼び出されたのは、鎌足である。御食子ともあまり面識のない皇子が、一度も会ったことのない鎌足をなぜ、呼ぶのか。御食子としても、意味が分からなかった。しかも太子は異国の神である仏を崇めており、中臣の家との関わりは、政務の上だけだ。それに最近の厩戸皇子は天皇の宮からも、政務からも離れていて、神祇とは無縁に近い。
宮の近くまで来ると、瓦ぶきの屋根が目についた。厩戸皇子が建立した寺院である。
「父上、外つ国の神の館なのに、そう見えません」
「そうだな」
明日香にある寺院に宿る力は、異国の神だとすぐにわかった。大地とのつながりのない力で、周囲と異質な感じがする力であった。
しかし、この寺院の神は最初からこの地で生まれたかのように、土地になじんでいる。あきらかに、異国の技術を取り入れて建築された寺院で、おそらくは異国から来た『仏』が祀られているにもかかわらず、そこには斑鳩の大地のにおいがする。
「殿下のお力のなせる御業なのだろう」
御食子が頷く。厩戸皇子は、仏教に詳しいだけでなく、皇族として神祇も一通り理解している。新しさ、珍しさで寺院を建立している訳では無い。
「門が見えてきた。馬から降りよ」
「はい」
警護について来た舎人に手伝ってもらいながら、鎌足は馬からおりた。
門番に馬を預け、御食子とともに、中に入る。
斑鳩の宮は、不思議な場所であった。鎌足はまだ、天皇の宮に参内したことはないので、比べることはできない。しかし、その建物は、異国の最新の建築技術を駆使して作られたもので、おそらく天皇の宮に匹敵するくらい、丁寧に作られたものであろう。寺の隣に造られているせいなのか、それとも政務を行う場所でもあるからなのか。居住区というより神域のような空気が漂う。
「殿下がお待ちでございます」
使用人に案内されたのは、広い板張りの部屋だった。
一月の日の光はまだ弱く、ぼんやりと薄暗い。部屋は奥が一段高くなっていて、異国の敷布が敷いてあり、礼服を着た男性が座っていた。年寄りというほどではないが、若くはない。五色の糸の飾り帯をしめ、五色の玉飾りをつけている。たくわえたあごひげと、知性をたたえた瞳が印象的だ。
鎌足は息苦しいほどの大きな力を感じて、立ちすくんだ。
御食子に促され、深々と礼をして、床にひれ伏したものの、身体の震えが止まらない。その力は、どうやら目の前の男性が放っているようだった。
「私が怖いか」
男性が口を開いた。
柔らかで穏やかな声。
震えながらも、鎌足は首を振る。強大ではあるが、決して攻撃的な力ではない。怖いというのとは違う。だが、震えずにはいられない。鎌足は今まで、人からこのような力を感じたことはなかった。
「お呼びにより連れて参りました。愚息の鎌足にございます」
御食子が頭を下げる。
「遠路はるばる、すまなかったな。楽にして良い。私が出向ければよかったのだが、昨今、体調が思わしゅうない」
鎌足はおそるおそる、ほんの少しだけ頭をあげる。
言われてみれば、頬が少しこけており、肌色もよくないようだ。
「斑鳩の里はどうじゃ? 明日香と違うか?」
男に問われ、鎌足はつばを飲み込んだ。口調は穏やかだが、目は怖いほどの強い光を放っている。まるで何もかも見通すかのような目だ。
「全然違います。ここは、外つ国の神の館から、大地のにおいがします」
父に話した通りに、鎌足は答えた。
「なるほど。良い目を持っているようだ」
男は頷くと、ポンと手を叩いた。
奥に控えていたのだろう。使用人が盆の上に小さな石をのせてやって来て、鎌足の前に置いた。
何の変哲もない、石ころのようだ。
よくみれば、わずかに力が宿っている。モヤモヤとしたもので、まだはっきりと何かは、わからない力。
「これから声を聞けるか?」
鎌足は石ころを注視した。
漠然とした力の正体を見極めろと言っているのだ。
滑らかな表面から見て、川原にあったものだろうか。にじむような力は、水を欲している。
「水が、欲しいと」
「それで?」
鎌足の答えに、男はさらに、その先を求めた。
御食子の顔をうかがうが、口を出す気はないようだ。
鎌足は、大きく息を吸った。
「井戸や貯め池の守り神として、丁寧に祀れば、枯れなくなると思います」
まだ、はっきりとしない力の特性を見極め、良き方向へ向ける。それもまた、神祇だ。
「ふむ。そなたで間違いなかったようだ」
男性、厩戸皇子は目を細める。鎌足の答えに、満足したようだ。
「実は、昨晩、占いをした。私はもうそれほど長くはない。後事を託すのにふさわしい人間を探して居った」
「恐れながら、鎌足はまだ幼く未熟にございます。そうでなくても政務は無論、仏門についても、我が中臣の人間には荷が重いことかと」
御食子の声が震えている。
「中臣の一族だからこそじゃ。常人の目に見えぬモノが見える者にしか、頼めぬ。残念ながら、託そうにも、私の子らはそういうモノが見えぬのだ」
厩戸皇子は目を伏せた。
「仏法は形と言葉に力を宿し、日の本の神は自然のモノに力を宿す。いずれも力であることには違いない。違うのは、この国の神の力は、悪でも善でもない……わかるか?」
「はい」
鎌足は小さく頷いた。
「良き力をいただくために、祈ると学びました」
「そうじゃ。聡いの」
にこり、と厩戸皇子が微笑む。
「これを見よ」
厩戸皇子は首にかけていたものをとりだした。
大人の親指ほどの大きさの乳白色の玉飾りがついている。
ただの石ではない。滑らかな表面は艶やかで、僅かに光を放っている。
「今よりもはるか昔。神代が過ぎて、間もないころ。仲哀天皇の御世のことだ。気長足姫尊こと、神功皇后が海中から得たという神功五玉のひとつ、義の玉じゃ」
「なんと!」
御食子が驚きの声を上げる。
鎌足は話を聞いていなかった。目の前の玉からにじみ出る強い力に魅せられて、片時も目が離せなくなっていた。
「あれは皇后の陵にともに埋めたと聞いておりましたが」
「そうだな。私もそう思っていた」
まだ、明日香に住んでいたころ。遠乗りに出かけた折に、みつけたのだと厩戸皇子は語った。
「鎌足というたな。こちらに」
突然、名を呼ばれ、鎌足はびくんとした。ちらりと御食子の方を見ると、早く行けと、目で促している。
「は、はい」
鎌足は深く頭を下げて、厩戸皇子のすぐ前まで移動し、再びひれ伏した。
「頭を上げよ」
優しい声に促され、鎌足が頭をあげると、厩戸皇子が鎌足の首に、玉のついた首飾りをかけた。
「え?!」
鎌足は思わず声を上げる。
「そなたに託す」
厩戸皇子は、柔らかに微笑んだ。
「この玉は、義の心をもってすれば、『力』を『和魂』に導き、恩恵を受けることが出来る」
「和魂?」
「神の良き力のことだ」
後ろから御食子が説明をする。
「かつて神功皇后は、荒魂と和魂の神の力の加護を得て、新羅に立ち向かったという。五玉すべてが集まれば、荒ぶる力ですら御せるという、恐ろしい力を秘めている」
鎌足は玉に手を触れつつ、厩戸皇子を見る。なぜこのようなものを託されるのか、全く意味が分からない。
「この世には、あと四つの玉が存在している。どこにあるのかはわからない。だが、この力を欲している者は多い」
厩戸皇子は立ち上がり、外の景色に目を向ける。日はさらに傾き、影が長くなり始めていた。
「玉は、力が見えぬものが持てば、ただの飾り。だが、見えるものが持てば、恐ろしい危険も秘めている。ゆえに、これを中臣の家に託すと決めた」
「殿下」
御食子の声が震えている。
「神祇を行う中臣の家ならば、その力も有効に使えよう。それに、不審に思われることもない。玉を欲するものたちも、気づくまい」
鎌足は玉を握り締め、ごくりと息を飲む。
「蘇我の大臣には渡してはならぬ」
「……はい」
子供の鎌足ですら、その名を知っている。いまや大臣の権勢は、留まることを知らない。
「御食子よ。幼き子をこのようなことにまきこむ私を許せ」
「滅相もございません」
ひれ伏した御食子に頷くと、厩戸皇子は再び、鎌足に向き直った。
「鎌足、そなたには時勢を読む目が備わっている。玉を守り、玉を集めよ。そして未来を託すものを見極めよ」
鎌足は震えながら頭を下げる。
翌月。厩戸皇子は斑鳩の宮にて容態が急変し、病死したとの報が明日香へともたらされ、国中が悲しみに沈んだ。
推古三十年(西暦六二二年)、二月のことであった。
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