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第2話 蘇我馬子 上
「父上」
亡くなった厩戸皇子の葬儀である『殯 』の儀礼の支度をはじめていた御食子は、不意に鎌足に声を掛けられ、手を止めた。
「私も斑鳩に連れて行ってください」
「これは神聖なる仕事じゃ。しかも、『殯 』にそなたのような子を連れて行くわけにはまいらん」
御食子は眉間にしわを寄せる。
厩戸皇子は、昨年亡くなった母、穴穂部間人皇女と同じ墓所に葬るよう、遺言している。葬儀の規模は、皇太子としてはかなり質素、簡略化されるらしい。とはいえ、天皇も豪族も参列することにはなっている。
神祇伯である御食子は、斑鳩から墳墓のある磯長陵まで、遺体を運ぶのに同行して、埋葬する儀礼を取り仕切るのだ。
遺体に悪霊が憑かぬように最新の注意を払い、御霊を鎮め、神となすための儀式である。
もちろん、神祇そのものはいずれ、鎌足も学ばねばならぬが、まだ八歳では未熟すぎだ。『見える』人間は、『憑かれやすい』ということもあり、身内でもない限り、修行をある程度終えるまでは『殯 』の場は禁忌なのである。
それに、今回の儀式はかなり政治的な意味が大きく、きな臭さも漂う。
厩戸皇子は、皇太子であった。
つまり、現在の推古天皇の跡継ぎが、空席になったということだ。天皇の健康に問題がない現在、急ぎではないにしろ、各豪族たちもそのことが気になっている。
それに、御家子は、厩戸皇子が息子に語った『蘇我の大臣に渡すな』言葉が耳から離れないのだ。
中臣家は、名門の連 家であるが、現在、蘇我氏の権勢の前では、無力も同然だ。万が一にも、鎌足が玉を所有していることを大臣である蘇我馬子に気づかれ、神功五玉を欲しいと言われたら、渡すほかない。蘇我家に逆らうことは、滅亡を意味する。となれば、鎌足をおおやけの場に出す事は、危険だ。
「儀式はみれなくてもいいんです。あの方がいなくなって、斑鳩がどうなるか見たいだけなのです」
たしかに、斑鳩は不思議な場所だった。斑鳩の古き神と仏教の仏の力が、混然一体となっていた。それは明らかに厩戸皇子の力であり、それを可能にしたのは、鎌足が受け取った神功五玉、義の玉の力だろう。
「しかし」
「この玉の力がいるかもしれません」
埋葬される磯長陵は斑鳩から離れている。
厩戸皇子がいなくなり、玉もなくなった斑鳩に、変化が訪れない保証はどこにもない。御食子は顎に手を当て、考え込む。
「儀礼に連れて行くわけにはいかぬが、斑鳩まで行くことは許そう。もっとも儂は仕事ゆえ、ともに行くことはできぬ。護衛をひとりつけよう。斑鳩で見るべきものを見たら、早々に明日香に戻るが良い」
「はい」
「くれぐれも、斑鳩の宮そのものには近づいてはならぬぞ」
御食子は念を押す。
だが、御食子は、神の力を見ることができるものが、中臣の人間以外にもいる可能性を失念していたのだった。
空の色が濃い。照り付ける太陽が眩しく、じわじわと肌を焼く。
「鎌足さま、ここから先はダメです」
「ここではまだ、斑鳩の宮が見えない」
鎌足は、護衛の辰に不満を口にする。
ここは大和川のほとりで、斑鳩の宮はまだまだ遠い。
こんな場所にとどまっていては、何のためにここまで来たのかわからないと思う。美しい川の流れも、憎らしく感じられた。
川の対岸に見えるのは、木々と田園ばかり。整備された道ですら、折れ曲がったところで、木々の影に隠れてしまっている。
「川を渡るのは、その怪我では無理です」
辰は中臣の家に仕える数少ない武官のひとりだ。中臣の家は、武力をほとんど持っていないが、それでも身辺を守る私兵を雇っている。辰は、その中でも腕の立つ優秀な男だ。
「斑鳩が見たいと思ったのに」
鎌足は大きくため息をついた。
当初の予定より、だいぶ手前になってしまったのは、来る途中で鎌足があやまって腕を怪我したからだ。
幸い大事には至らず、応急処置をしたが、片腕ではうまく馬を操れず、川を渡れそうもない。この程度のこと、とは鎌足は思うが、辰としては許可出来ぬであろう。馬を預け、行けるところまでと歩いたが、これ以上は無理だ。
鎌足は、斑鳩を一目見て、すぐに帰るつもりだった。父親には玉が必要になるかもと言った。が、異常が現れて、何か手を打たなければいけない事態になれば、いくら玉を授かったとはいえ未熟な鎌足でなく、御食子の仕事になるだろう。鎌足としても、自分がまだ何も出来ぬことはわかっている。鎌足が大人と張り合えるのは見る事だけで、そこから先は自分ではどうにもならない。
「斑鳩がご覧になりたければ、儀礼が終わった後、またゆっくり行けばよろしいのです」
「……そうだけど」
辰の言う通りではある。
儀礼が終わったあとならば、斑鳩の里をのぞきに行ったところで、御食子も文句を言わないに違いない。
「見たかったな」
鎌足は呟く。本当は斑鳩より、儀礼がもたらすものを見たかったのだ。
あれほど大きな力を持っていた人間が亡くなるというのは、どういうことなのか。周囲はどのように変わるのか。鎌足はそれを知りたかった。
神祇とは、朽ちていく躯に宿る力を慰めて、神と成すこととは学んでいるけれども、鎌足は実際にその術については行ったことがない。
「ん?」
辰が、眉間にしわを寄せ、突然、地に耳をよせた。
「鎌足さま。馬が来ます。それもかなり多い。こちらへ」
辰に言われ、鎌足は慌てて道脇の茂みの獣道に入り、臥せる。背の高い草原のため、二人の身体はすっぽりと草の中に埋もれた。鋭い草の葉が皮膚にあたって、ひりひりとする。
なぜ、隠れなければいけないのか、鎌足にはわからなかったが、辰の顔は真剣だ。おそらく、御食子に何か指示を受けているのだろう。
やがて、馬蹄の音が近づいてくると、鎌足は激しい動悸を覚えた。
「まさか……」
厩戸皇子だろうか。力を感じる。大きくとも神ではない。人の力だ。まるで背筋が凍るような力である。
「違う」
鎌足は首を振る。厩戸皇子の力は、強大ではあったが、温かみを帯びていた。死して変化したとしても異質すぎる。あまりにも鋭さと冷たさがむき出しで、刃を思わせた。
「蘇我の大臣の一行のようです」
辰が声を潜める。
馬が貴重である中、十数騎におよぶ馬を押し並べることができるは、蘇我の大臣か、天皇そのひとしか考えられない。天皇ならば、騎馬のみということはないだろう。
乗り手は全て太刀を帯びていて、訓練された者のようだ。
ひときわ目を引くのは年配の男だ。豪奢な帯を締め、飾りのついた太刀を下げている。異国のものと思われる腕輪を手にはめて、立派な髭をたくわえていた。かなり年をとっていると思われるが、背筋はしゃんとしており、馬を巧みに乗りこなしている。
「馬を休ませよ」
男の声に一行は馬を止めた。命令することになれた張りのある声。おそらく、蘇我の大臣、蘇我馬子であろう。
「あのひとだ」
鎌足は小さく呟く。
先ほどからの大きな力は、蘇我馬子から発せられている。強く、冷たく、そして鋭い、恐ろしい力だ。
身体の震えが止まらない。
厩戸皇子の時は、強大な力を感じても怖くなかった。しかし、目の前の男は違う。怖い。
「今日は良い天気だ」
「さようでございますなあ」
蘇我馬子は談笑しながら、馬をおり、その背をなでた。そして、どっかりと石の上に腰を下ろす。
供の者の差し出した竹筒に口を当て、のどを潤しはじめた。
「鎌足さま、ゆっくりと後ろへ」
辰に耳打ちされ、鎌足は這いつくばった状態のまま頷く。
休憩を始めた従者たちが、思い思いに辺りを歩き始めたからだ。ここだと見つかってしまう危険がある、ということだろう。
とはいえ。音をたてないように、と思っても草が生い茂っているから、移動は難しい。
「ん?」
馬子は何かに気付いたのか。不意に立ち上がり、まっすぐに鎌足の方をみつめている。
ーー見られた?
ぞくり、と背筋が冷える。
「いかがなさいました?」
「ふむ……」
視線を微動だにさせず、馬子は髭に手を当てた。片手をあげ、従者を呼び寄せるのが見えた。こちらを指さし、何やら指示をしている。
ーー探そうとしている?
鎌足はおもわず首に下げた玉を握り締めた。玉にやどる優しい力にふと気づく。
蘇我の大臣ともあろう人間なら、視線にだって慣れている。百姓衆などの平民は、大貴族が通れば関わり合いを避け、こうやって隠れたり、地に伏せたりすることが多い。
誰かが隠れているのに気づいたところで、いちいち駆り立てたりするだろうか。辰は太刀を帯びてはいるが、鎌足は丸腰の子供だ。刺客でもなんでもない。危険を感じたのであれば、こちらが気づかぬように、手を打つはずだ。
ーーひょっとしたら、見つかったのは、この玉のほうかもしれない。
もし、馬子が目に見えぬ力を見ることができるのならば、この玉の存在を感じることができるかもしれない。
「辰、これをこの先の水神さまの祠に隠して」
「鎌足さま?」
「どう頑張っても、子供の私は逃げられそうもない。これを持っていたら、殺されるかもしれない」
鎌足は玉を強引に辰に押し付けた。
「早く行って! 隠したら、迷子になった私を馬を連れて迎えに来て」
辰は迷っているようだったが、明らかに男たちは何かを探し始めたようだ。草葉が揺れ始める。
「わかりました。くれぐれもご無理はなさらず」
辰はそう告げると、ゆっくりと鎌足から離れていった。
鎌足は辰が去るのを見送ると、辰とは違う方角に向かって全力で走り始めた。
「いました! 子供がひとりいます!」
その声を合図に、鎌足はわざと悲鳴を上げ、でたらめに走りはじめた。
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