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56.私刑(*)
ヴァリスが目配せして合図すると、手下がユタカを両側から押さえつけた。
「お前はちょっと鞭打ったくらいじゃ効かなそうだからな」
ヴァリスは冷酷な笑みを浮かべながら、手下からユタカの剣を受け取り、抜刀した。
ユタカは斬られるのかと思い咄嗟に身を固くしたが、違う様だ。ヴァリスは検分する様に、刃を自分の顔に近づけた。
「お前が使ってる剣には感心せざるを得ないな。これはどこの武器屋でも売ってる、せいぜい中の上くらいのものだな?
お前くらいになれば名剣と呼ばれる類を使ってるのが普通だろう。お前は特定の武器がないと戦えない剣士にならないように、自分を律しているんだ。まさに剣士の鑑だな」
「だから……何だと言うんですか」
「こうやっても惜しくないなと思ったんだ。
刃が鈍って剣としては使えなくなるからな」
ヴァリスは焚き火にユタカの剣をくべた。
爆ぜる炎の中で刃が縁から徐々に赤色に色付いていく。剣をしばらく熱すると、ローブを指先まで伸ばして手を保護し、熱くなった剣の握りを手に取った。
ユタカは息を飲んだ。
「俺がこれをどうするか、分かるよな?」
焚き火に背を照らされたヴァリスの顔は笑っている。ユタカを指導してくれていた頼もしい剣士の面影は無かった。
人が怨みによってこうも変われるという事実が、ユタカに救いようの無い絶望感を持ってのしかかってきた。
(でも、ここで絶望する訳にいかないんだ……)
ユタカは顔をヴァリスを睨み返したが、身体を押さえつけている手下がユタカの髪を掴み、無理矢理俯かせた。
ヴァリスは熱した剣を持ってユタカの背後に回る。
「背中貸せよ」
ヴァリスはユタカの背中に、熱したユタカの剣を横向きに押し当てた。
シャツが燃え、皮膚の焦げる音がして煙が上がる。
「……!!」
ユタカは想像を絶する痛みに、のけぞる身体を止められなかった。悲鳴を堪えられたのは奇跡に近かった。子ども達をこれ以上怖がらせたく無かったのだ。
男二人がユタカの肩と髪を掴んで無理やり元の姿勢に戻す。全身が強く震え、涙が溢れた。
「泣いてるじゃないか。
国一の剣士がこんな醜態を晒して、死にたくならないのか?」
地面にうずくまって震えているユタカを見下ろし、ヴァリスが言った。
「……別に。おれはサザを守っているんです。おれの自尊心なんてどうでもいい」
ユタカは何とか顔を上げ、ヴァリスを睨み返して震える声で言った。笑みを見せていたヴァリスの表情が一気に鋭くなる。
「そんなこと言ってられるのは今のうちだけだぞ」
「おれは何をされても、絶対にサザを渡しません。
やるだけ無駄です。諦めて下さい」
「それはやらないと分からないだろ?
おい。舌噛んで自殺しないように布を噛ませとけ」
手下がユタカの口に布を噛ませて後頭部で結んだ。
ヴァリスはもう一度剣を焚き火に埋めて熱し、ユタカの背中に押し当てた。
ユタカは激痛に耐える為に、奥歯を割れるくらいに噛み締める。
握りしめた掌の内側に自分の爪が食い込んでいく。
ヴァリスは押し当てた剣をユタカの背中から離すと、ユタカの前に回ってしゃがみ込んだ。
涙を流して震え、息を切らしているユタカの顎を掴み、微笑む。
「お前が首を縦に振るまでやるからな。早く諦めた方がいいぞ。
絶対、死んだ方が楽だからな」
「……」
背中に張り付いた激しい痛みが、ユタカから絶え間なく正常な思考を奪おうとする。
確かに、死んだ方が楽だと言うのは本当だろう。でも、そうすればサザはヴァリスの手に堕ち、イスパハルはカーモスに侵略されてしまうのだ。
ユタカはヴァリスを睨みつけながら、深呼吸をして身体を無理やり落ち着かせようとしたが、震えは止まらなかった。
「剣ではお前に誰も勝てないけどさ。
本当に強かったら泣いたりしないだろ? 早く認めろよ」
ユタカはずっと、ヴァリスの言う通り自分はまだ、弱いのだと思っていた。
涙を見せても、弱くないと言って抱きしめてくれたサザに救われたのだ。
(おれの心……どうか最後まで、正気を保っていてくれ……
おれは、何があってもサザを守るって、約束したんだ)
ヴァリスはもう一度、剣を焚き火に埋める。
ユタカはヴァリスの悪意より先に自分の精神が潰えないことをひたすらに祈りながら、強く目を瞑り、歯をくいしばった。
瞳に滲んでいた涙が硬く閉じた瞼の端から溢れて、乾いた地面に小さな染みを作った。
—
「こいつ、気を失ってますよ」
ユタカの背中に押し当てた剣を焚火の中に戻しているヴァリスに、手下が言った。
ユタカは後ろ手に縛られ地面に座らされたまま、前のめりにぐったりと倒れている。
何度も繰り返し熱した剣を当てられたユタカの背中はシャツが燃えてぼろぼろになり、焦げ跡が幾重にも重なり合って爛れ、血が流れていた。
ヴァリスは正直なところ、ユタカがここまで抵抗するとは考えていなかった。
他の男にも同じ様なことをしたことはあるが、どんなにしぶとそうな奴でも大体はユタカにかけた時間の半分もかからずに目が虚ろになって、こちらに従うようになる。
しかし、ユタカは気を失うまで、その瞳に明確な抵抗の意志の宿して、こちらを睨み返してきた。しかも、剣を奪われて暴行されるという、剣士としては極めて屈辱的な状況であるにも関わらずだ。
ヴァリスの方が完全に優位な立ち位置にあるというのに、ユタカの一貫した態度はヴァリスに少なからず不安を覚えさせた。
(どう考えても、もうこいつに勝ち目はない。俺は何を恐れているんだ)
「そこの川、浅かったな。突き落としたら起きるだろ」
手下は二人がかりでユタカの身体を引きずると、うつ伏せに川へ放り投げた。
水しぶきを上げてユタカの体が川の中に倒れ込む。川はとても浅く、膝下程度の深さだが、うつ伏せなら息ができないだろう。
「っ……はあ……!」
ユタカは水の中で目を覚ましたが、腕を後ろで縛られているのと水を吸った服の重さでなかなか立ち上がれないようだ。
ユタカがやっと立ち上がって川縁に上がろうとした所でヴァリスは腹に蹴りを入れてもう一度ユタカを川に突き落とした。
今度は起き上がれないようで、ユタカは川の中で座ったまま立ち上がろうとせず、肩で息をしながら震えている。
川の水の冷たさに晒された背中の火傷の痛みが激しくなり、動けないのだろう。
(国一の剣士が、何て無様な姿を晒しているんだ)
「おい、まだ死んでないだろ。立てよ」
ヴァリスは歩いて川に入ると、ユタカの胸ぐらを掴んで引き起こし、ユタカの口に噛ませていた布を外して投げ捨てた。
「お前程の奴が何であんなど底辺の女に固執するんだ? もっと美しくて従順な貴族の娘が選び放題の筈だろ」
「……サザを貶すな」
(……この目だ。
この状況で何でこんな目ができるんだ。全てが絶望的なのに)
ユタカは荒い息をしながら、怒りを湛えた眼差しでヴァリスを睨みつけ続ける。その漆黒の瞳の真っ直ぐさが、ヴァリスの心を騒がせた。
剣の腕前を抜かれ、幾多の暗殺計画もかわされた。こちらの計画を何もかもぶち壊し、それでいて子どもの様に純朴な尊敬の眼差しを向けてきた、この、ユタカ・アトレイドという男。
ヴァリスは自分がユタカに対して抱いている感情が畏怖である事にまだ気づいていなかった。
しかし、ユタカがこれだけ激しく抵抗するとなると、ヴァリスがサザを手に入れることは出来ないかもしれない。
この期に及んでまたしてもユタカに作戦を狂わされることが、ヴァリスを堪らなく苛立たせた。
「何なんだよ。その目は。お前はもう死ぬしかない。さっさと諦めろ。
サザはサザはイスパハルじゃ犯罪者、カーモスじゃ裏切り者だ。
居場所なんて何処にも無いゴミみたいな女だよ」
ユタカは一層軽蔑した眼差しでヴァリスを睨みつけると、ヴァリスの顔に唾を吐きかけた。
「お前……!」
激昂したヴァリスはユタカの胸ぐらを掴んで引き寄せると、顔面を殴った。
「っ……」
拳が頬を打つ鈍い音と共に、ユタカの鼻から血が流れてぼたぼたと川に滴る。
ヴァリスはユタカの胸ぐらを掴んだ手を勢い良く離して立ち上がると、川の中にうつ伏せに倒れたユタカの背中の火傷を、靴裏で抉るようになじった。
これまで一つも声を上げなかったユタカが遂に悲鳴に近い呻き声を上げたので、ヴァリスはほくそ笑んだ。
「抵抗しても無駄だと、まだ分からないのか? そんなに馬鹿な奴だと思わなかったぞ」
ヴァリスがユタカの背中の傷を力を込めて踏みつける。焚火で薄く照らされた仄暗い川の水に、ユタカの血が広がって流れていく。
ヴァリスがそのまま踏みつける足に力を込め続けると、後ろで手を縛られたユタカの堅く握りしめられていた両掌が力なく開いた。
ヴァリスが足を退けてもユタカはぐったりと水の中に座り込んで動かない。また気を失ったようだ。
「ヴァリス様。それ以上やると死にそうですが」
川の中でユタカが動かなくなったのを見て、手下が声をかけた。ヴァリスは息を整え、溜息をついた。
「回復魔術の使えるガキが一人いるはずだ。
ユタカを回復させて、もう一度最初からやる。
……俺に従わなかったことを絶対に後悔させる」
「承知しました」
手下はヴァリスに従ってユタカを川から引きずりだして建物まで運び、扉を開けると、子供たちとハルが縛られている目の前の床に投げ捨てる様に放り込んだ。
「ユタカ!!」
ハルが叫び、子どもたちは悲鳴を上げる。
ユタカは後ろ手に縛られて床に横向きに倒れたまま、ぴくりとも動かない。
濡れた体から、血の混ざった水が流れて床に広がる。子ども達はユタカを見て、声を上げて泣き出した。
「あなた……!
こんな事をして、ユタカが一体何をしたっていうの!」
「ばあさんが知る事じゃ無いんだよ。
おい。ガキの中に回復魔術の素養のある奴が一人いるはずだ。ユタカを回復させろ。
目覚めたらまた痛めつけるからな」
「また苦しませるために治療するなんて……」
「いいのか? 放っておけばそのまま死ぬぞ」
ハルは唇を噛んで震えながらヴァリスを睨み、涙を流した。
「アキラ、ユタカを回復させて」
「……分かりました」
名前を呼ばれた十四、五才の赤髪の少年が立ち上がった。アキラはユタカの傍に付き、直ぐに呪文の詠唱を始める。
「逃げようという気を起こすなよ。
ユタカを夜明けまで痛めつけたら、その目の前でガキは全員殺すからな。どうせ死ぬんだ。
逃げたら死ぬのが早くなるだけだ」
「そんな……
あなたは子ども達は殺さないとユタカと約束したでしょう!?」
「最初はそう思ってたんだけど、ユタカが全然諦めてくれないからさ。
それくらいやればあいつだって流石に従うだろうと思ってな。何にせよ、信じた方が悪い。
ユタカが絶望する顔を見るのが楽しみだよ」
「……あなた、地獄に落ちるわよ……」
「何とでも言え。
一時間やる。一時間したらもう一度来るから、それまでにやっとけよ」
ヴァリス達は聖堂のドアに鍵をかけて出て行った。天窓からの月明かりで照らされた聖堂内に、アキラの詠唱する呪文と子どもたちの泣き声が響いていた。
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