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軍服姿のユタカとアイノは二人、日の沈みかけた戦場に取り残されていた。
カーモスとイスパハルの戦争が佳境を迎えた戦火の真っ只中、イスパハル歴二十八年の初夏である。十八歳で学校を出てそのまま戦地に赴くことになった二人はその実力を認められてそのまま戦地を渡り歩く毎日だった。
アイノは森の入口に起こした小さな焚き火の横で、怪我をして地面に仰向けに横たわっているユタカの胸に包帯を巻きつけた。アイノが確実に止血するためにユタカの傷に当てた包帯を強く締め付けると、傷が傷んだらしいユタカは顔をしかめた。
「……もうちょっと優しくしてくれても良くないか?」
「知るか。死にたいのか?」
アイノはきっぱりとそう言って立ち上がる。辺りをぐるりと見回すと、高い位置で結んだ緋色の長い髪が風になびいた。夕陽に包まれた戦いの後の戦場宜しく、見渡す限りの焼け野原だ。そして、元々美しい森であったこの場所を今の姿に変えたのはアイノの魔術だった。今アイノとユタカのいる森の入口よりも本当はもっと広大な森がこの場所一面に存在していたのだ。
ここが森であったことをかろうじて思い起こさせるのは、所々に燃え残った木立だ。その合間の所々に、命の入れ物としての役目を終えた身体が横たわっている。イスパハルの群青色の軍服も、敵国カーモスの銀鼠色の軍服も、血に染まると同じ様な色になることをアイノは戦場に来て初めて知った。
その一つ一つを弔おうとすればこちらの心が忽ちに苛まれてしまう。最初こそ深く心を痛めた景色にも段々と慣れてしまってきた自分は、人ではない何かに変わりつつあるのかもしれない、と思う時がある。
本当なら二人はこんな所に取り残される筈ではなかったのだ。
今日、ユタカとアイノは「組み」になって戦地に配置されていた。
攻撃魔術士のアイノは魔術で広範囲の攻撃を行うために戦場に配置されるが、呪文を詠唱している間に敵に攻撃されれば何も抵抗出来ずに死んでしまう。強力な魔術を発動する為の呪文は詠唱に数分以上かかる為、その間にアイノの背中を守るのがユタカの役目だった。
アイノの炎の魔術の功績によってこの戦闘ではイスパハルが勝利したが、そのアイノを守っていたユタカが負傷してしまったのだ。胸を横に大きく斬られているユタカはとても自力で動けるような状況に無かったため、近くにいた別の組みの魔術士と剣士が助けを呼びに行ってくれたが、二人は日が暮れる前には遂に戻ってこなかった。
日が暮れた今、イスパハル軍としても大規模に捜索に出るほどの人手の余裕は無い筈だし、敵の奇襲によって余計な負傷者が増える可能性もある。助けが来るとしたら夜が明けてからになるだろう。今晩は何とか二人でここで過ごすしかなさそうだ。
アイノとユタカは二人、森の入口の茂みの影に隠れるようもし敵が近くに来たとしても焚き火を直ぐに消せば暗がりになるから見つからない筈だ。
ユタカは体を横たえて苦しそうに呼吸している。焚き火の火が弱くなったのを感じたアイノは近くにあった小枝を放り入れるとぱちぱちと火の粉が爆ぜた。この焚き火を起こしたのはユタカだ。
魔術の発する魔力の痕跡で敵に存在を気づかれるかもしれないので、アイノは今は魔術が使えない。アイノが最も得意な炎の魔術であれば焚き火など一瞬で起こせるのだが、今の状況では火打ち石を使うしか無かった。
何十回と石をかち合わせても上手く火種を作れないアイノを見かねて怪我しているユタカが何とか身体を起こして火をつけてくれてしまったのだ。
ユタカは孤児院育ちの分、都会育ちのアイノよりも野営の準備はずっと上手い。アイノは自分の情けなさに腹が立ったのとプライドの高さでユタカに素直に礼が言えなかったが、ユタカは何も言わなかった。
二人が言葉少なに焚き火にあたる内に日は完全に落ち、焚き火の明かりだけが頼りになった。夜が冷え込む時期で無かったことが幸運だった。
自分を守ろうとして深く傷ついているユタカを前に、アイノはかける言葉を見つけられないでいた。本当なら、ここでユタカに言うべきは礼であり、詫びだろう。
それでも、いつもユタカに対してつっけんどんな態度しか取っていないアイノは自分の自尊心を崩せず、こんな時ですら自分の態度を改められなかったのだ。自分の不甲斐なさに大きな不快感を感じながらも、アイノは無言の気まずさから思わず口を開いた。
「……ユタカ。この戦いが終わったら少し休み貰えるって言ってたじゃないか。また恋人の所に帰るのか?」
「いや……今回は孤児院だな」
「喧嘩でもしたのか? 折角の休みなのに」
「いや、死んだんだ」
「え……?」
全く予期していなかったユタカの言葉にアイノは絶句した。
「奇襲に遭って切られて死んだんだって。魔術医師が生きてると兵士を負傷させてもどんどん回復させられるから、最初に殺した方が有利らしいな。知らなかったけど」
「……」
「ごめんな、返しにくい話をしてさ」
引き攣った表情で黙りこくったアイノにユタカはぽつりと返した。こんな時でも謝ってくるのがこの男だ。アイノは余計な質問をした自分への自責の念と苛立ちを噛み殺した。
「おれ、死んだら彼女に会えるのかな」
ユタカの言葉の意味する所に驚いたアイノは思わず聞き返す。
「お前は、絶対に生きて帰るんだろ。いつもそう言ってたじゃないか」
「それは恋人が生きてたからだ。それくらい分かるだろ」
ユタカが息と一緒に言葉を吐き出す。怪我のせいか如何にも苦しそうだが、言葉がさっきよりもずっとぶっきらぼうな理由はそれだけでは無さそうだ。そんな投げやりな物言いのユタカをアイノは初めて見た。
「……会いたいんだ。絶対に伝えたいことがあったのに、言えなかった」
「黙れ」
アイノはユタカの言葉に被せるようにしてはっきりと言うと立ち上がった。ユタカは横たわりながら驚いたようにアイノの方に目線をやる。
ユタカは生きることを諦めかけている。
「そんなに死にたければさっさと死ね」
アイノはそう言うと、ユタカの傍らに置いてあった剣の握りに手をかけた。ユタカが小さく「アイノ?」と声をかけたが、アイノはそれを無視して力を込めて抜刀した。焚き火にその刃がぎらりと光った。
これが、ユタカ・アトレイドを剣士たらしめるものだ。
魔術士のアイノが長剣を抜刀したのは生まれて初めてだった。なんて重いのだろう。その想像以上の重量に小柄なアイノは若干ふらつきながらも、ユタカの傍らにその剣を置いた。予想外の行動に出たアイノにユタカは目を見開いた。アイノは言葉を続ける。
「それを使って死ねばいい。私はヴァリス・ルーベル少佐にきちんと報告しよう。ユタカ・アトレイドは好いた女の後を追って自殺した、名誉あるイスパハル軍の剣士になるなんて烏滸がましい男だったと」
ユタカは横たわったまま、目を見開いてアイノを見つめている。
「だがな。お前の死んだ恋人は絶対に、お前に早く会いたいなんて思っていない。思い上がるな、この田舎者が」
アイノは分かっていた。
将来を約束した恋人を亡くした上に、自分を守ろうとして酷い怪我をしたユタカが「ここで死にたい」と言うのを責める権利など自分には無いことを。しかしユタカの命を今、守れるのが自分だけだということも。
二人の間に沈黙が流れる。永遠とも感じたその時間をアイノはただユタカをきつく睨みつけて過ごした。
「……ごめん」
ユタカは一言そう言って、アイノから視線をそむけた。
「アイノの言う通りだ。彼女が死んだ分までおれは生きなきゃいけない」
ユタカの言葉を聞いてアイノは心の底から安堵したが、顔に出さない様に注意して仏頂面を作った。
「当たり前だ。私が言うことはいつも正しいんだ」
アイノが真顔で言うとユタカはそこで眉を寄せて弱々しく笑った。普段なら緊張感がなくて苛立たしい位のユタカの笑顔なのに、アイノはその笑顔に見てこれ迄に無いくらいにほっとし、ともすれば泣きそうになってしまった。
しかしそこでユタカが苦しそう喘いだのでアイノは慌ててユタカの傍らにしゃがみ込み、怪我の具合を見た。
「大丈夫か?」
ユタカの胸を見るとさっき巻いた包帯が白い部分が無くなる程に血で濡れそぼっていた。上手く血が止まっていなかったのだ。アイノは慌てて荷物を確かめたが、もう替えの包帯も薬草も残っていなかった。
何とか一晩過ごしさえすれば安全だと思っていたのに、最悪の事態が急激に迫って来た。まさかこんなことが自分の目の前に来るなんて想像していなかったアイノの心の内は大きく慌てていた。
(……どうしよう)
このまま出血が止まらなければ、ユタカは夜明けまで保たないだろう。時を同じくして焚き火の火も陰り始めた。
「……待ってろ、薬草と焚き木を直ぐに探してくるから」
アイノは一人、携帯用の小さなランタンに火を灯すと、駆け足で森へ入っていった。
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