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雨、放課後、旧校舎。
雨が自身の跡を窓に点々とつけていく様を、俺は横目でじっと眺めていた。ふとその奥に意識を向けると、様々な色に染められた傘が校門を跨いで、帰路に就くのが目に入る。そして時折、その合間を縫うようにして走り抜ける、数人の男子生徒の姿も。
本来であれば、俺もあの群れの一員だったのかもしれないのに……。
彼らのことを羨ましく思わないと言えば、それはきっと嘘になる。
本当は俺だって、雨さえ降らなければ“ここ”にはいなかったかもしれないんだから。
誤解しないでほしいのが、俺は別に雨に濡れるのが嫌だとか思うような、神経質な性格なんかじゃないってこと。雨に濡れたって制服は乾かせば済むし、教科書だって教室に全て置いてあるんだから、鞄が濡れたって困りはしないんだ。俺が今、ここ──旧校舎の二階──なんかにいるのは、傘を忘れたからって、それだけじゃないんだ。
ただ……放課後になって突然、雨が降ってきて。遣らずの雨って言葉が何度も、何度も頭の中を巡って。これって、そういうことなんじゃないかって思ったんだ。
ひょっとしたら俺は、呼ばれているんじゃないかって思ったんだ。
目の前には、何の変哲もない一つの扉。ほんの少し目線を上に向ければ、「心霊研究会」と書かれている古ぼけた表札が垂れ下がっている。先ほどから俺は、この扉の前から一歩も動けずにいた。
湿り気を帯びた埃っぽい不快な空気と、窓を叩く微かな雨音。それらだけが、この空間を独占している。
この「心霊研究会」には、二つの噂があるらしい。
一つは、「ここにいるのは本物の霊能力者らしい」ということ。
そしてもう一つは、「ここには本物の霊が出るらしい」ということだ。
人伝に聞いた話だし、学校の七不思議の一つみたいなものを真に受けるなんて、馬鹿馬鹿しいと自分でも思う。だけど、俺は賭けた。前者に賭けたんだ。本当かどうかもわからない噂に縋るほどに、俺は思い悩んでいたのだ。
つきん……と、引きつったような痛みが両肩に走る。それだけじゃない。二、三日前から、錘をいくつも重ねたような気だるささえも覚え始めた。この感覚が、そのうち全身にまで広がるんじゃないかと思うと……とても平常心ではいられない。
平常心ではいられない、いられないのに。それなのに。助けてほしいと思ってここまで来ておいて、それでもなお緊張して動けないだなんて……俺も大概、女々しい男だ。
はあ、と浅い溜息を吐いた、その時だった。
「誰か、いるのかしら」
女性の凛とした低い声が突如、扉の奥から響いたのは。
情けないことに、その声に震えたのは鼓膜だけじゃなく……全身も、だ。人の気配なんてここには一切無かったはずなのに、その声はまざまざと“生”を見せつけてきたから。
「は、はい。失礼します!」
この人が俺を助けてくれるかもしれない、そんな思いが頭を掠めたらもう、ためらいなど瞬時に消えていた。
性急に二、三回ノックをしてから、勢い良くドアノブを捻る。一番最初に目に飛び込んできたのは、窓。幾千もの水滴が、そこに散らばっていた。
そこに、人──彼女はいた。窓を背中にして。長机に片肘を乗せ頬杖をし、顔と目線だけを真っ直ぐにこちらに向けている。
「あら、こんにちは」
そう言って悠然と微笑む彼女を目にした瞬間、絵画を見ているんじゃないか……そんな、奇妙な感覚を覚えた。
背後に聳え立つ窓が天井に到達するまでに巨大なせいか。それともその奥に見える雨雲の灰白色のせいか。窓そのものがキャンバスの役割を果たし、ちょうどその中央にいる彼女を被写体にしているかのよう。
濃紺のブレザーにさらりと流れるのは、烏の濡れ羽色。今までに見た誰のものよりも、それは艶めいている。
ただ……一つだけ覚えた、違和感。
俺の学校の女子の制服って、セーラー服のはずだよな? どうしてこの人は、ブレザーを着ているんだろう。もしかしてこの人……転入生なんだろうか。
「……どうしたの? その様子じゃ、なにか相談事があるからここへ来たのでしょう?」
何も言わず突っ立ったままの俺に向かって、穏やかな表情そのままに訊ねてくる彼女。まっすぐにこちらの目を見据えてくる漆黒の瞳は魅力的と言うよりも、恐れ多くて直視がためらわれた。
向かいの椅子に腰掛けるよう彼女に促されるも、「失礼します」の一言以外、俺は何も口にはできなかった。先ほど消え失せたはずの緊張感が、自らの意志で以って俺のところに帰ってきたようだ。
想像していたよりも、教室の中は整然としていた。ここに来る前は、怪しげな呪術書なんかが積み上げられていたり、曰くありげな人形が鎮座していたりするんじゃ、といった勝手なイメージをしていた──それもまた、入るのをためらった理由だった──のだが、本はたしかに沢山あっても試験の参考書にでも使えそうな古文書だったり、棚の上には女子の好みそうな可愛らしいテディベアが飾られてあったり。正直、拍子抜けだ。
ただ、外が天候のせいで薄暗いのに加え、電気も点けられていないせいで、真向かいに座っているこの人の顔色が異様に悪く見えてしまう。それが未だに、俺の緊張を助長させていた。
「で……アナタ、お名前は?」
刹那。机を挟んでいるにもかかわらず、耳元で囁かれたような感覚が背中に走る。比較的低いトーンで紡がれているその声。それには形容しがたい静かな迫力が宿っていて、ますます俺の緊張感に拍車をかけている気がした。
「……金城和也。二年です」
「そう。私は紅野。三年生よ。役職としては、ここの会長ね」
「紅野先輩……ですか」
苗字だけ告げると、彼女は手元のマグカップを口に運び、そして再び口角を上げてこちらを見つめてくる。マグカップに注がれているのは、この教室に充満している香りからしてコーヒーのようだ。
「アナタもなにか飲む? コーヒー、それとも紅茶がいいかしら」
そう言って立ち上がろうとする彼女を、俺は慌てて手で制した。
「いえ、大丈夫です! お気持ちはありがたいですがそんなことよりも、えっと……!」
「ふふ、そうよね」
俺が最後まで言葉を続けずにいると、察してくれたのだろうか、紅野先輩はにっこりと微笑んで再び腰を落ち着ける。
「で、相談事って何かしら?」
先ほどまでの大人っぽい表情とは一転、心なしかわくわくした表情を見せた彼女。
突如、俺の心に不安が押し寄せる。
「その、笑わないで聞いてくれますか? 相談っていうより、質問に近いんですけど」
「ええ、もちろん」
その答えを聞いて安堵した俺は、ここ最近ずっと胸のうちに溜め込んでいた疑問を、空に投げ出した──。
「……あの! 幽霊って、本当にいるんですか!?」
「…………」
紅野先輩は俺の問いに、目を丸くした。が、それも一瞬だけ。すぐにその目は細められ、唇には緩やかな笑みが湛えられる。
「……どうして、そんなことを訊くのかしら」
再びマグカップを口元に運ぶ彼女。だがその射抜くような視線は、終始こちらに注がれている。
「……紅野先輩はこの高校の裏手にある、廃校の体育館跡の噂は知ってますか」
問いに頷く。当然とでも言いたげな表情だ。
「聞いたことあるわ。夜中になると、誰もいないはずなのに蛍光灯がぼんやり点いていたり。ボールの弾む音が聞こえてきたり。人影が見えたりする、怪現象の噂でしょう? ここの学生の多くが何度も目にしているせいか、なかなか有名な肝試しスポットになっちゃっているみたいね」
「はい。それで……じ、実は先日。そこで肝試し大会が開かれたんですよ」
「……へえ?」
興味深いと言いたげに、口元を緩めた紅野先輩。やはり心霊研究会に属しているだけあって、その手の話題が好きなのだろうか。
「それでそれで? 話を続けてちょうだい」
「は、はい。明かりの点かない体育館を一人でぐるりと一周して、予め体育館のステージに置かれているテニスボールを取ってくれば、無事ゴールできるんですけど……」
思い出すだけで鳥肌が立つことを、口で説明するのは思いのほかためらわれることのようだ。うまく舌が回ってくれない。だが、紅野先輩が話の続きを待っている。何より、俺は早く楽になりたい。口にしてしまえば、少しくらいは気が楽になるのかもしれない……。そう強く思い込むことにして、思い切って口を開いた。
「……肝試しが始まった時間帯が深夜だったせいもあって、体育館の中は本当に真っ暗で。よく目を凝らさないと、足元すらもまともに見えないくらいでした。俺は懐中電灯を持っていなかったから、窓の外から時々入ってくる車のライトを頼りに歩いていました」
「…………」
無表情。そして無言。続けていい、ということなのだろうか。
「そ、そしたら体育館の入り口の光が、目に入って。だんだんその青白い光が大きくなってくるのがわかって。誰が来たんだろうと思って、そこに近づいていったら……」
あのときの情景が目に浮かぶ。それとほぼ同時に、両の肩がざわめきだす。あくまで徐々に、徐々に。だけれど確実に。俺の体を蝕むように、縛りつけるように。そして次には、
「……あっ。あの、すみません」
途端、俺は両手で頭を抱えた。早く紅野先輩に全てを伝えたいのに、突然の頭痛がそれを邪魔をする。ずきん、ずきんという音が鼓膜を独占する。視界を揺らがせていく。
一体、なんだ? なんなんだよ、これ。
「そう……“何か”がいたのね?」
俺を気にかける様子なんてまったく見せずに、紅野先輩は淡々と確認する。だが彼女の問いのおかげで、口を開かずに済む。言葉を紡がずに済む。俺はほっと胸を撫で下ろした。頭痛に耐えつつ、やっと俺が一度頷くと、
「もう少し、詳しく聞かせてくれる?」
落ち着いた様子で、そう問う彼女。
「はい。その光に近づいていって、間もなくのことです。叫び声が突然、耳に入ってきて……」
「叫び声……それは、その光から聞こえてきたのかしら?」
「はい。暗くてよくは見えなかったんですが……髪の長い女性だった、と思います。声だけじゃなくて……床を這うような、壁を叩くような音が耳のすぐ近くで聞こえてきて……あまりに恐ろしくて、走って逃げたんです。……信じられないし信じたくないけど俺が見たあの女性は、もしかしたら幽霊だったんじゃないかと後から思い始めて……何て言えばいいのか……」
ふふ、という笑い声に、俺の言葉は遮られる。気づけば、早口で捲し立てるように話してしまっていたようだ。
「怖くなったのね?」
「……情けないですが」
そこで紅野先輩は、「なるほど」と言って可笑しいと言わんばかりに微笑んだ。これまでの話の過程で、笑えるポイントなどあったろうか?
ここは俺としては、今までとはなにか別の反応を彼女に示していただきたかったのだが。……しかしよくよく考えれば、心霊研究会のこの人にとっては俺の話など……それと似たような話など、耳にタコなのかもしれなかった。
コーヒーを全て飲み終えてしまったのか、マグカップの底を見てつまらなさそうに眉を顰める紅野先輩。しかしそれをきっかけにか、
「幽霊がこの世にいるのかどうか……という議論は、『幽霊を見たことがある側』と『見たことがない側』とで対立することがほとんどなのよね」
そう切り出して、自論を展開し始めた。
「『見たことがある側』は言うわ。『私はこの目でたしかに見た。耳で声を聞いた。肌で感じた。だから幽霊はこの世にいる』と。そして、『見たことがない側』は言うわ。『ただの気のせいだ。幽霊なんて非科学的なもの、認めるわけにはいかない』とね」
俺は何も言わず、彼女の一言一句を全て頭に叩き込むべくただただ頷く。そうなると俺は、前者に属することになるのだろうか。いや、この世にいるのかどうかの答えを求めてここへ来たのだから、どちらでもない……今はまだ、中立の立場なのだろうか。
俺の密かな疑問を余所に、紅野先輩は饒舌に続けた。人差し指で自身のこめかみを数回、とんとん、とノックしながら。
「『見たことがない側』の言い分はこうよ。『脳が見せたのだ。もし正常に脳が働いているならば、目に見えたものだけを認識してくれる。だから仮に、その場にいないはずのものが見えたとしても、なんら不思議ではない。一時的に、脳のはたらきに不具合が生じただけなのだから』……要するに、幽霊というのは人の脳が作り出した幻だ、ということよ」
「……幻? そんな……脳が人を騙すみたいなこと、あるとは思えないんですけど……」
俺はあからさまに苦笑してしまった。だが一方の彼女はといえば、気持ち良いくらいに断言する。
「あるわよ」
さも、常識を語るかのようなそんな口吻で。
「……ほ、本当ですか?」
「ええ。それも、とーっても身近な例があるわよ」
俺が相当に疑った目をしていたのか、紅野先輩は思わず、と言った調子で頬を綻ばせる。
「それはね、夢。眠りに就くとき、アナタも夢を見ることがあるでしょう。その中では、自分の通っている学校で、いつもどおり授業を受けているときもあれば、時には大空を飛び、大海原を乗り越え、ジャングルを探険するときもあるでしょう。誰かとお話したり、はたまた独りぼっちだったりするときもあるでしょう。そのときに見たものは何? その色は? 登場人物は誰で、何人いたかしら? 何を見て、聞き、何に触って、そしてどんな香りを、空気を感じたかしら。そして、何を思ったかしら」
「……えっと」
答えに詰まった俺。非常に紅野先輩には言いづらい雰囲気なのだが……最近、夢を見ることがあまりなくなってきたのだ。熟睡しているせいなのか、夢を見ても起きた頃には忘れているだけなのかもしれないけど。
けど、子供の頃はよく見ていた気がする。
絵で再現するのも難しい妙ちくりんな怪物と闘うことになったり、空を飛んで、地に降りたと思ったらなぜかパトカーの群れに囲まれてたり。……どうしてそうなったのかなんて、今も当時もまったくわからないが……。
「アナタはたしかに夢の中で、何かを見て聞いて、そして何かに触れているはずよね? だけど……それは、果たして現実かしら?」
その問いかけに、即座にぶんぶん、と首を左右に振る。鮮明であれ朧げであれ、たしかに映像として俺の記憶に残ってはいるが……それらはしょせん、夢だ。脳が俺に見せた、ただの夢。
実際に“目で”見てはいなくとも、見えるものはある、ということか。
……いや、待てよ。
「あの……紅野先輩。この話の流れからすると先輩は、俺が見たものは幽霊じゃなく……ただの気のせいだと、いや夢、幻だと言いたいんでしょうか」
ごくり、と音が鳴りそうなほど大量の唾を飲み込んでそう訊ねる。紅野先輩はそっと目を伏せた。
「違うわ。そういうことじゃないの。選択肢があるということを、アナタに教えただけのことよ」
「選択肢……?」
儚げにはにかんでから、彼女はさらに続ける。
「そう、アナタが選んでいい、決めていいのよ。幽霊がこの世にいるのかどうか。アナタが見たものが幽霊だったのか、それともまた別の何かだったのか。あるいは何も見なかったのか、をね。どれを信じてもいいし、信じなくてもいいのよ。それはアナタの自由ってこと。私の話を信じるも、信じないもアナタの自由」
「……俺が決めるっていうのは、どういうことでしょうか」
俺がこう、何度も彼女に問わねばならないのは単に俺の頭が悪いせいなのか? それとも彼女の説明が足りないせいか。
だが紅野先輩は一度肩を竦めると、
「そうね、私の言い方が悪かったかもしれないわ。もう少し補足して説明しましょうか」
そう言って折れてくれた。つくづく聞き上手というか……人の心を読むのが上手い人だと感じる。
「つまりね、アナタが決めたことがそのまま現実に、アナタの中での真実になるのよ。体育館で見たものを幽霊だとアナタが一瞬でも思ってしまったとしたなら、その瞬間に初めてそれは『幽霊』になる。反対に、あれは夢だった、幻だったと思ってしまえばそれは、真実が何であれ『夢』に、『幻』になるのよ。だから、アナタが決めるの。自分にとって都合の良い真実をね」
「……そういう、ものですか? そんなことで、いいんですか?」
案外そんなものよ、と言って紅野先輩は目を細めた。
「でも……あんな恐ろしいもの、夢だったなんて到底思えないですよ!」
「そう? 意外ね」
先輩、何も意外じゃないです。そんな自己暗示に引っかかるほど、俺は単純じゃないです。
心の中でそう突っ込むだけで口には出さなかったのは、彼女がどこへやら視線を送っていたから。なにやら集中して考え事をしているようだから、何を言っても無駄かもしれないと思ったんだ。
やがて、口を開いた彼女。その目は至って真剣だ。
「……なにかきっかけがあれば、だいぶ違ってくると思うわよ」
「きっかけ……ですか?」
もう何も入っていないマグカップを見下ろしながら、紅野先輩は言葉を紡ぐ。
「そうねぇ、例えば……朝起きて、アナタがテレビを点けたとしましょう。たまたま報道番組の最後にやっている星占いを見ていると、自分の星座がなんと最下位にランクインしていた。……そんな経験、無い?」
「ああ、ありますよね……そういうこと。占いなんて基本、信じてませんけど」
「ふふ、そう。じゃあ訊くけれど、もしその日、たまたま天気予報にはなかった雨が降って。体育の途中で膝を擦り剥いて。おまけに宿題を忘れて先生に怒られて。……『あーあ、最悪だったな今日は』……って思いながら家路に就くとき。アナタは朝の星占いをほんの一瞬でも想起せずにいられるかしら?」
……まずい。即答できん。そのときになってみないとわからないが、もしかしたら俺は、信じていないはずの星占いを思い出してしまうかもしれない。
「つまりね、きっかけがたったの一つでもあれば、人間は何だって信じてしまえる、思い込んでしまえるのよ。現に、アナタの肩の痛みだって同じでしょう?」
俺は、ぱっと顔を上げた。俺、この人に肩の痛みについてなんて何も言っていないはずだよな?
心臓がどくんと大きく跳ねるけれど、紅野先輩は事も無げに話を続ける。
「肝試しに参加して、奇妙な体験をしてから両の肩に違和感を覚えたアナタ。もしかしたらこれは幽霊の仕業なんじゃないか、自分は取り憑かれたんじゃないかって思ったのでしょう? 幽霊なんて今までまったく信じていなかったのにも関わらず、肩の痛み……たった一つのきっかけが、アナタの心をいとも簡単に揺るがせてしまった……」
タイミング悪く発症しただけかもしれないのにね、と言うと彼女はふふ、と優雅に笑う。その笑い方はどこか、年齢にそぐわない高貴な雰囲気が漂うものだった。
笑うなんて失礼な、とか。この人、年齢サバ読んでんじゃないのかとか思ったけれど、そんなことよりも。
「な、なんで俺が肩の痛みに悩んでるってわかったんですか!?」
やっぱりこの人は本物の霊能力者なのか……!?
期待に胸膨らませる俺を尻目に、紅野先輩は笑うのを止めると。はぁ、と浅い溜息を吐いた。それにはどこか、呆れの色が目立つ。
「両肩を引きつらせているのをさっきから見ているのに、気づかれていないとでも思ったの?」
「あ、あぁ。なんだ、そういうことですか……」
空気の抜けた風船のように萎んでいく俺。やはり彼女も普通の人間……なんだろうか。そうは見えないけど。決して。色んな意味で。
俺の心中の失言に気づいてか否か、彼女はずい、と身を乗り出してきた。そして、俺が忘れないようにゆっくりと、だが声を落として言葉を紡ぐ。
「良いこと? もしアナタが肝試しで見たものを幽霊だと思いたいなら、そう思っていればいいわ。ただし、もし幽霊だと思いたくないのなら、そして取り憑かれたくないのなら、そのことは一切気にしないこと。幻だったのだと思い込むことよ。思い込み……綺麗な言い方をすれば『信じる力』は、良い意味でも悪い意味でも強いもの。ときには真実だって捻じ曲げるわ。少なくともそれは、アナタの中での真実だけれど。それでも、アナタは自分が救われればそれで良いのでしょう?」
「は、はい。ということは俺のこの肩の痛みは……いずれ良くなるのでしょうか。信じるだけで?」
「そうでしょうね。とりあえず、まずは。湿布でも貼ってみたらどうかしら?」
その言葉にふっと、思わず笑みを零した瞬間……気づいた。俺をずっと悩ませていた肩の痛みも、決して耐えられないような頭痛も、いつの間にやらどこかへ行ってしまっていた。
……もしかして、これがきっかけなのか?
彼女の言葉が。いや、存在が。
俺の悩みを消してくれる、きっかけになったのだろうか。
そして、『そう思い込んでしまえばそれが、俺の中での真実になる』……そういうことか?
なんだかよくわからないけれど……紅野先輩は結局、俺に親切なアドバイスをくれた、それだけだったのだろう。
「あ……あの……紅野先輩。最後にもう一つ、いいですか」
「なにかしら?」
「紅野先輩は、幽霊はこの世にいるって思って……いや、信じていますか?」
訊いて何の意味があるのか、なんて考えもしなかった。ただ、本当に興味本位で訊いてみただけなんだ。この恐ろしく冷静で聡明な人が、幽霊という存在を信じているのか……少し気になった、だけなんだ。
だが彼女の回答は、
「……さぁ、どうかしら。真実は、必ずしもこの世に一つってわけじゃないもの」
予想通りというか何と言うか。曖昧模糊としたものだった。そして……予想に反して、
「真実なんて、サイコロみたいなものなのよ。自分一人では、一度に全ての面は見られない。必ずどこかに見えないところがあるのよ……そう、一人では、ね」
意味深長にそう呟く彼女の目は、どこか悲しそうだった。
ふと窓に視線をやると、いつの間にか雨は止んでいたようだ。雨音は雫に変わり、雨雲は散り散りになって茜色に、そして徐々に紫色へと染まっていく。千切れた雲間からは、消えかけの夕陽が覗き始めた。ちょうど紅野先輩の背に夕焼けが漂っているせいで、もう彼女の顔は見えない。逆光が、憎い。どんな表情を彼女が浮かべているのか……もう、俺にはわからない。
ふと、背後の窓に視線を送る紅野先輩。彼女もまた、雨が上がったことに気づいたらしい。こちらに向き直ると、至極優しい口調でこう述べる。
「……もう、アナタはお帰りなさい。夜の学校はなかなか危険なのよ?」
それは貴女も同じでしょうに、と心の中では思うけれど。……大丈夫なのかもしれない、この人なら。
「今日はありがとうございました。おかげ様で楽になりました!」
そう言って、俺は立ち上がり頭を下げた。彼女に背を向け扉のドアノブに手をかける。その感触は心なしか、ここを訪れた時よりもずっと軽やかなものに感じられた。
ああ、やっぱり。今日はここに来て本当によかった。
「ところで」
ドアノブを捻った、その瞬間。
「私も質問したいことがあるんだけど、いい?」
紅野先輩が、唐突に俺を呼び止める。それに応えるべく、俺は背後を振り返る。
「え? あ、はい。なんですか?」
沈んでいく夕日。相変わらず、逆光で彼女の顔は見えない。
「ただの付き添いなのかしら。さっきからアナタの後ろにいる子は」
沈んでいく、夕日。逆光が、視界の邪魔をする。
だから、紅野先輩がどんな顔をしているのか、俺には見えない。見えない、はずだった。
だが、俺にはたしかに“見えた”。
細い三日月のような形を成した、薄い唇が。彼女の笑みが。
……紅野先輩、ごめんなさい。貴女の話を聞くだけでは、ちょっと理解できそうにないので。
最後に。あともう一つだけ、質問させてください……。
「それは今、俺に向かって言ったんですよね?」
(完)
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