10.憧れのひと

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10.憧れのひと

 若くてハンサムなその医師は、たちまちサントリナ女子修道院の修道女たちの憧れの的になりました。名前はアスター・グラウェオレンス。歳は二十五歳。町内の診療所で開業医をしているとのこと。カレンデュアも噂でそれを知り、彼のことばかり考えるようになりました。これが“恋”?  カレンデュアは人の前では決して――もうばれていましたが、決してそのことを認めようとはしませんでした。わたしは修道女なんだから、と。  その頃町ではある伝染病が流行していました。前回グラウェオレンス医師が検診に来たのは、その感染者がいないか調べに来たためでした。そして今度は予防接種のために来院することになったのでした。 「注射はいやだけど、グラウェオレンス先生に会えるからうれしいわ」 「先生、わたし痛がりなの。やさしくして? なんてね、あははは」  高らかに笑う修道女。彼女たちはやはりまた盛り上がっていました。  彼に、また会える……。カレンデュアは図書室に向かって廊下を歩きながら、頬を両手で包みました。アスター……先生。ふと立ち止まり、窓からぼーっと外を眺めていると 「カレン」  その声にびくっと彼女が肩を浮かせて振り向くと、横にあの修道女――おそらくニゲラ、がいました。 「ニゲラ、さん?」  “ニゲラ”はカレンデュアを見て、なにやらあやしい笑顔を浮かべています。わたしは知っているのよ。そう言っているように見えてカレンデュアはうろたえてしまいました。 「カレン」 「はい……」 「あなた」  迫るような言葉にカレンデュアは後退します。 「“恋をしてるわね”」  カレンデュアの額からたらーっと冷たい汗が落ちました。 「で、でもわたし、決して誓いは破りませんから!」  必死で彼女が叫ぶとニゲラは「わかってるわよ」と言ってにっこり笑い、すっと魔法のように掌の上に何かを出しました。お菓子の入った袋のようです。するとニゲラは「いいことを教えてあげる」とカレンデュアの耳元でささやきました。それから袋の中からお菓子を一つ取り出し、ねっ? と言ってぷにぷにとそれを指でつぶしてみせました。カレンデュアはそれを見て恥ずかしそうに頬を赤らめました。  ニゲラがくれたのはマシュマロでした。ニゲラはそれが唇の感触に似ていると言うのです。本当かしら? 裏庭のベンチに座ってそれを眺めるカレンデュア。ぷにぷにと指でつぶしてみます。たしかにやわらかくてそんな気がしないでもないけど。そうやってぷにぷにやっていると 「こんにちは」  え? 声がいつも聴いたことのない声だったので困惑気味に振り向くと、ワイシャツにベストを着てジャケットを小脇に抱えた若い男性が立っていました。それを目にしたカレンデュアは、“アスター……”思わずそう口から零してしまいそうになりました。 「隣、いいかな?」と言われてカレンデュアはどぎまぎしながらどうぞとうなずきました。心臓が、心臓が破裂しそう! 「それ何?」 「え?」  カレンデュアは手にマシュマロを持っていたことをすっかり忘れていました。やだ、わたしったら。手元のマシュマロを隠すようにぱくり。ほぼかまずに飲み込んでしまいました。それからあははと苦笑いして答えます。 「マシュマロです」 「マシュマロかあ、なつかしいな。よかったら一つくれない?」 「え、ええ、どうぞ」とカレンデュアは袋を“アスター”のほうに向けました。 「ありがとう」  彼の手が袋の中に入るとカレンデュアの胸はそれだけで高鳴りました。袋越しにまさぐる彼の手がぶつかります。忍び足の鼓動がいたずらにカレンデュアの胸を叩き続けました。ドッキン、ドッキン、ドッキン、ドッキン。そんなことは知らないアスターは涼しい顔で、マシュマロを一つ取り出して口に運びました。もぐもぐもぐもぐ。彼が咀嚼する姿を横から観察するようにじっと見てしまうカレンデュア。彼ってなんて綺麗な横顔をしているの。鼻筋が通っていて顎のラインもとても綺麗。眼鏡を外したらどうなるのかしら。見てみたい……。見惚れてしまいました。  それからもたびたび彼は修道院に訪れるようになりました。なんでも院内で作っている天然ハーブでできた薬を調合してもらっているとか。カレンデュアは庭でハーブを摘みながら思うのでした。また彼に逢えないかしら。うれしくてハーブの収穫作業が楽しくなります。そして休憩するときはいつも袋入りのマシュマロを持ってベンチに座り、彼を待ちました。またここに来ないかしらと期待して。この日も恋する乙女はマシュマロを口に運び、幸せそうにそれを味わっていました。すると何かの視線を感じました。その先に視線を移動させると 「ニゲラさん!?」  あの修道女がいました。またこちらを見て物知り顔で笑っています。 「うまくいったみたいね」と彼女は近付いてきました。 「それ、おいしい?」 「はい、おいしいです」 「そう、よかったわ」そう言ってニゲラはカレンデュアの隣に座りました。 「でもなんでわたしにマシュマロをくれたんですか?」  ニゲラはよくぞ訊いてくれましたと言うようにしたり顔をしました。 「知りたい?」 「ええ」 「じゃあ教えてあげる」  含むような間を作ってからニゲラは言いました。 「わたしね、あなたに教えてあげたかったの」  カレンデュアは不思議そうにちょこんと首を傾げました。 「何をですか?」 「キスの感触よ」 「キス?」 「マシュマロってぷにぷにして唇みたいでしょ。だから」 「もしかしてマシュマロでキスを再現……」 「ふふ、それもあるけどね。本当の目的は“恋”よ」  カレンデュアの頬がぽっと薔薇色に染まります。 「恋、ですか? でも何で」 「あなたにも知ってほしかったの。恋することを」  そしてニゲラはおだやかにほほえんで言いました。 「恋って“すばらしいものよ”」 「?」  まあ、なんてやさしい顔で笑うのかしら。こんな顔をしたニゲラさんを初めて見たわ。綺麗……。カレンデュアが恋の先輩を憧れのまなざしで見ていると 「わたしは昔ある人に恋をしたの」  声を落とし、遠い目をしてニゲラは語り初めました。
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