紅雨

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「何を……したの?」  振り返った顔は、もうすっぽりと黒い頭巾に覆われている。 「いないいない、ばぁ、というやつだ。さっさと撤収してくれるとは、案外と頭のいい奴だったな」  扉をノックする音がして、カラチャがゲッソリした表情で顔を出した。 「は~、ったくやんなっちゃうわ。部屋の連中に迷惑料として今夜の宿代払い戻しよ。一晩ただ働きだわよ」 「……ごめんなさい」 「あんたのせいじゃないわ。帰れっつってんのに押し入ってきたあいつらのせいよ。先日の示談金もいただいてないのに、倍にして請求してやろうかしら」 「示談金?」  カラチャは浅くため息をつくと、後ろ手に扉を閉めた。 「あんた、置屋出てきて正解よ。あんたのいたとこは相当質の悪いところよ。ここらへんの他の宿の連中とも、もめてるって聞いたわ。……シロが、ここに戻るちょいと前の話なんだけどさ……。あんたのいた置屋から、女の子が逃げてきてね。うちの玄関先で血まみれの大惨事。あげく、亡骸をそのままにして帰っていきやがったのよ。後日、埋葬費を請求しに行ったのに、まだいただいてないの」 「……っ」  ああ、あの子だ。黒髪のおとなしい感じの。置屋に出入りしていた料理屋の若旦那と、いい感じになっていた。一緒に逃げるって言ってたのに、あれきり若旦那も見なくなった。幸せになれたと思ってたのに……死んでたんだ。……ここで。  背筋を冷たいものが流れ落ちた。 「急いだほうがいいな」  シロがつぶやいた。 「ここで見つからないとなったら、多分、捜査の目は国中に広がる。国を出る前にまた絡まれたら厄介だ」 「そうね。夜明けまでに馬の手配をしておくわ」 「え? どういうこと……」 「青の民までつなぎを付けてやる。どうせ行きがけだ。遅かれ早かれ立つところだった。気にするな」 「あ、……ありがとうございます!」 「そうと決まったら、ちっと寝とけ。明日は早い」  背中越しに手をひらひらさせると、シロとカラチャは出て行った。薄暗い部屋と、ふかふかのベッド。誰の目も気にしない。怯えることもない。体の底から温かいものがこみ上げてきた。  安心感。  ここ何年も感じたことのないものだった。
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