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美しき誤算
間接照明がぼんやりと照らす店内に、客は全部で
五人。
内、二人と二人と一人に分かれる。
入口から一番遠いカウンター席に座る初老の男性は、少なくとも私の勤務シフト内では初めて見る客だ。
21年物のウィスキーをロックで飲み、傍らには厚みのある表紙のハードカバー小説を置いている。
ボックス席に座っているのは三十代の男女で、互いに薬指に揃いの指輪を嵌めているところを見るに、夫婦だろう。
指輪だけではなく、カクテルまで揃いにして和やかに会話を交わしていた。
ぐるりと店内を見渡し、それに比べて、と手前のカウンターに座るもう一組の客を見る。
片方は私も知っている常連で、青みがかったアーモンドアイの美しい男だ。
しかし、今日はその目を釣り上げ、眉間に深い皺をいくつも刻んでは、苛立ちを隠そうともせずにカウンターテーブルを指先で叩く。
その様子を見て、美人は怒っても美人か、と溜息を噛み殺す。
目鼻立ちの整った顔ばかりではなく、男は立ち居振る舞いが美しく、しなやかな筋肉をまとう上半身を僅かに倒していても、背中に針金を入れているかのように軸がブレていない。
眉間の皺に対して、ブランド物のスーツには皺一つなかった。
カウンター内でグラスを拭いていた私が、隣の女性へと視線を向けたところで、その男――蓮水さんが「今日のアンタ、過去最高にブスよ!」と声を荒らげる。
驚いてグラスを取り落としそうになった。
グラスを強く握り締めて顔を上げると、丁度こちらを振り向いた、今し方ブスと罵られた女性と目が合う。
ヤバイ、と思ってしまったが、決して酷いブスではなかったとだけ言っておく。
「アンタもそう思うでしょう?!」
声を荒らげたまま私に同意を求めてくる蓮水さん。
正直に言って私を巻き込むのは止めて頂きたい。
目の合ってしまった女性は、蓮水さんとはまた別の意味合いで眉を寄せている。
「はぁ」と溜息のような相槌を打ちながら、女性と目を合わせたまま、緩慢な瞬きをした。
絶世の美女とは言わないが、壮絶なブスとも言えない女性だ。
同性から見て、あまり害になるとは思えないタイプとでも称せば良いのか。
余程仕事が忙しいのか目の下には薄らとした隈が出来、目尻はほの赤く染まっている。
アルコールを摂取して若干据わりつつある黒の強い瞳は涙の膜を張っているようで、温かみを醸し出す間接照明でも光が揺れた。
小さめの鼻の頭も目尻と同じく朱に染まっているのを見るに、店に来る前に泣いたのだろう。
蓮水さんに対して凹凸の少ない、しかし曲線の多い顔は化粧っ気がなく、実年齢より幾つか若く見られそうだ。
後ろで一つにまとめられた髪も、飾り気はないが清潔感はあった。
そう思いながら服装へと視線を移す。
キッチリとスーツを着こなす蓮水さんに対して、こちらはかなりカジュアルな出で立ち。
白いシャツにベージュのパンツを合わせ、柔らかな色味を締めるために黒いジャケットを着ていたようで、カウンターチェアの低い背もたれへ引っ掛けている。
「……可愛らしい方のようにお見受けしますが」
「アンタ、フォロー下手って言われるでしょう」
「失礼な」
私の返答がお気に召さなかったようで、蓮水さんは大袈裟に首を竦め、大きく頭を振った。
女性の方は表情筋が上手く動かせないようで、目元をピクピクと引き攣らせる。
それを見て、私は別のグラスを手に取り、再度拭う。
「垢抜けない、素朴な可憐さが御座いますよ。お客様、蓮水さんは少し飲み過ぎているようですので、酔っ払いの戯言と聞き流すのが良いかと」
ニッコリと営業用のスマイルを引き出し告げれば、蓮水さんの方を据わった目で睨んでいた女性がハッと振り向き、その目を右往左往揺らす。
「いえ、その」と言い淀み、浅い呼吸を繰り返した後に「この人の言ってること、事実だと思うので」と言う。
流石に「蓮水さん」呼び掛ける声に剣呑な色が混じり、つい咎めてしまった。
蓮水さんは一瞬唇を引き結ぶが、直ぐに気を取り直すようにタンブラーグラスを引き寄せ、真っ赤なブラッティーメアリーで口を濡らす。
「違うわよ」
「何が違うんですか」
「実際、今のこの子は酷いブスだけど……」
「蓮水さん」
ブスブスと連呼するな、と言外に咎めれば、気まずそうにこれまた一瞬だけ目を逸らす蓮水さん。
しかし、諦めずに言葉を紡ぐ。
その間にも、私は次のグラスを磨く。
「ポテンシャルはあるのよ」
「ポテンシャル……」
「現状に胡座をかくなんて、愚か者のすることだわ。怠惰で傲慢だわ、高慢だわ」
眉を寄せたまま深い息を吐く蓮水さんに、私は緩やかに頷いてみせる。
「相変わらず、美意識が高くていらっしゃる」と言いながら。
男性でありながら、女性以上の美意識と共に所作の一つを取っても美しい蓮水さんは、美意識の塊と言っても差し支えない。
女性的な口調と一人称の『アタシ』で、時折『オカマ』と謗られるが、はてさて、普通とは如何様か、と私は思う。
しかし、それはそれ、これはこれ、だ。
「では、蓮水さんが無為に女性を泣かせた訳ではない、と」女性の方へ視線を向けつつ言えば、蓮水さんよりも先に女性の方が首を振る。
左右に勢い良く振られ、その細い首から頭がゴロリと落ちてしまいそうだ。
自分の考えに勝手にゾッとして、布巾を置いた右手で女性を制す。
「それは良かったです」と。
「もしも蓮水さんが泣かしていたのならば、私の鉄の拳が……」
「ちょっと、アンタ本気じゃないの」
「えぇ、勿論」
右手を握り込み、上下に振れば、目の前で蓮水さんが顔に青みを差して口元を歪めた。
下手くそな笑みのような形を見ながら頷き、その後はまた、女性を見る。
女性の方へ笑顔を向け「お名前をお伺いしても?」そう問えば、女性は乱れた前髪を薄桃色で彩られた指先で素早く整え「向日です。向日 葵」と答えた。
私は「向日さん」と繰り返す。
それに対して、女性こと向日さんは淡く笑んだ。
「私、その、振られまして」
「……それはそれは、立ち入ったことをお聞きしまして」
淡い笑みを苦笑に変えて語った向日さんに、私は空になった向日さんのロックグラスを手に取って言う。
今日はかなり込み入った話が多いのだろうか。
向日さんはカウンターテーブルを見ているが、それよりもどこか遠くへと意識を飛ばしているようで、目が虚ろだ。
項垂れ、流れ落ちる前髪がそんな向日さんの表情を覆い隠す。
「彼に、好きな人が出来たそうで。えぇ、見事に浮気されてました。でも、分かるんです。だって私、ずっと、とっても仕事ばかりしてましたから」
「……お仕事熱心だったんですね」
「そう、言えば聞こえは良いんですけど」
「この子の場合は、私生活に影響を及ぼした悪い例よ。職場環境が良いだけに、最低な例よ」
「蓮水さんは何故そう水を差すんですか」
ツーンとそっぽを向く蓮水さんを横目で見る。
しかし向日さんの方は顔も上げずに「事実なので」と震え声で言う。
今にも泣き出しそうな雰囲気に、私は居心地の悪さすら覚え、手持ち無沙汰に新しいロックグラスへと手を伸ばす。
縁の滑らかな曲線を確かめるように、指の腹で緩やかに撫でた。
「恋人に……いえ、もう元恋人なんですけど」
何故、自ら墓穴を掘るのか。
「その元恋人が『お前の恋人は仕事だろ』と。そう思われても、無理はなくて……」
「ついでに最近のズボラさまで指摘されたのよ。『最近は男よりも華がない』ですって」
「……それは、流石に相手の男性も言い過ぎでは?自身も浮気していたようですし」
「あら、アンタ今日はやけにこの子の味方じゃない。この前、アタシが仕事の話をした時なんて『ならば辞めてしまえば宜しいのでは?』なんて言った癖に」
静かに向けたジト目に軽く肩を竦めた。
確かに言った覚えはあるが、私の声真似は酷く似ていない。
「それとこれとは、まぁ、話が別ということで」と誤魔化し、私はロックグラスに氷を入れる。
涼し気な音が一つ響いた。
「円満な別れ話など、そうそうないのでしょうね」
氷を入れたロックグラスにカルーアと牛乳を注ぐ。
失恋に対するフォローは特に難しいもので、しかし、今回は蓮水さんがいるので私のフォローは大して必要としないだろう。
必要だとしても、それは向日さん相手ではなく、蓮水さん相手のものだ。
「だから、それ以前の問題よ」
溜息と一緒になってそう言った蓮水さんは、俯く向日さんの顎をすくい上げ、無理矢理顔を上げさせた。
焦げ茶の髪が大きく揺れ、その顔を私に見せ付けるように向けられたもので、カクテルを作る手を止めてしまう。
「見てみなさい、この顔!隈は出来てるし、寝不足と食生活の乱れから肌荒れが酷いわ!乾燥してパサパサよ!見なさいこの立派な大人ニキビを!」
「蓮水さん、蓮水さん!前髪を捲らないで上げてください」
「化粧なんかじゃ誤魔化せないのよ!」
されるがまま、前髪を捲り上げられた向日さんは、私の後方にあるお酒の並ぶ棚をぼんやりと見つめている。
先程の飲み過ぎている発言は冗談だったのだが、実は本当に酔っ払ってるのでは、と思うような、テンションの高い蓮水さんは、私が止めても聞かず、キィィと歯を食いしばった。
美意識の高さが裏目に出ている。
しかし、その実、蓮水さんの言っていることも一理ある訳で。
前髪に隠されたなだらかな額には、堂々たる主張をしている大人ニキビが確かに存在した。
赤みを帯び、向日さんの薄化粧では隠し切れていない。
肌も乾燥気味で、薄暗い店内ではさほど気にはならないが、明るいところで見れば一目瞭然、粉を吹いている。
目尻を釣り上げて怒る蓮水さんを見て、私はこっそりと小さく息を漏らす。
軽く屈んでストックのインスタントコーヒーの袋を引っ掴み「なら」と口を開く。
「それなら、蓮水さんがお手伝いして差し上げれば宜しいのでは?」
小首を傾げて言えば、二人は揃って丸めた目を私に向けた。
どことなく似ている雰囲気に笑ってしまいそうになるが、頬肉を一度噛んで耐えると、私は更に続ける。
「そもそも、お話を聞いている限り、蓮水さんがお怒りなのは、向日さんが振られたことよりも向日さんの元恋人の方が浮気していたことよりも、向日さんの美意識の低下ですよね。先程から、肌がどうのこうのと言っておられますし」
「ま、まぁ、そう言われてみればそうね」
「そうですよね。でしたら簡単です。そんな蓮水さんが、向日さんにスキンケアなり化粧なりをお教えすれば全て解決です。フェアリーゴッドマザーさながらに、向日さんを蓮水さんの言うポテンシャルを最大限引き出した美しい人にしてしまえば良いのですよ」
肩を竦めて言えば、蓮水さんはまるで目から鱗、とでも言うように唇を、否、体そのものを震わせた。
「それだわ!」と叫ぶ蓮水さん。
「そうでしょうとも」と頷く私。
未開封のインスタントコーヒーの袋を開き、中のインスタントコーヒーの粉を作り掛けのカクテルが入ったロックグラスに振り掛ける。
中身をめちゃくちゃにしないよう、軽く掻き混ぜる。
私達の会話を聞きつつも、その内容のほとんどを理解出来ていない様子で丸めた目を右往左往泳がせる向日さんへ、そのカクテルを差し出した。
泳いでいた目が、カクテルへ向かう。
「どうぞ」差し出した右手でカクテルを差せば、向日さんは未だ乾いていない涙の貼り付いた睫毛を揺らすように目を瞬かせ「えっと、でも」と遠慮がちに眉を寄せた。
突然頼んでもいないものを出されれば、驚くのも無理はないだろう。
しかし私は一人のバーテンダーとしての姿勢を崩すことなく微笑み、もう一度「どうぞ」と促した。
「本日でお酒を飲めなくなる可能性が大ですので。最後の一杯として是非、奢らせて下さい」
「え?それって、どういう……」
疑問符を大量に浮かべる向日さん。
それに対して「当たり前でしょう!」と答えたのは、アルコールとは違う熱に当てられている蓮水さんだ。
「明日からお酒なんか飲んでる暇ないわよ」
「えっ」
「アタシがアンタを徹底的に美しく磨き上げるわ!もうブスだなんて、男よりも華がないだなんて言わせないわ!!」
蓮水さんの決意の声を聞きながらも、私としては、ブスは蓮水さんが言ったんだよなぁ、と思わずにはいられない。
「そうと決まったらさっさと飲んで、さっさと帰るわよ。帰り道に今日のスキンケアを」と語り出す蓮水さんと、慌てて私の作ったカクテル、ビター・カルーアミルクを飲まされる向日さん。
飲み終えた後は、全ての会計を蓮水さんが支払っていく男前っぷり。
ついでに私の懐にチップも捩じ込んでいった。
こうなってくると、常連である蓮水さんも暫くは来ないだろうな、と考えると、店の売上云々で何か小言の一つでも言われるだろうか、と考える。
二人分のグラスとコースターを下げ、どうなることやら、などと思えば、同じくカウンターに座っていた初老の男性と目が合った。
「良いね」と言われ、どのことを指しているか分からずに「えぇ、まぁ」と曖昧に頷く。
私の返答は特に気にしていないのか、初老の男性は目尻に深い皺を刻みながら笑んだ。
どことなく真面目で固い、頑固そうな雰囲気に思えていたが、笑うと人好きのする笑みだと分かる。
「若く、青く、美しいなぁ」
カロン、と氷を鳴らし、ウィスキーを煽る初老の男性。
一気にグラスの中身を空にすると、グラスを私の方へと傾け「もう一杯、貰えるかな」と笑う。
私も笑みを返し「畏まりました」と恭しく一礼した。
***
フェアリーゴッドマザー蓮水さんの向日さん改造計画が打ち出されてから、丁度一ヶ月。
すっかり常連になった初老の男性に、いつもと同じ21年もののウィスキーをロックで出していたところ、カラコロと店の扉に付けてあるドアベルが客の来店を告げた。
「いらっしゃいませ」
客商売用の笑みを浮かべ振り向けば、直ぐに、おや、と目を丸めてしまう。
店の扉を開けたのは一ヶ月振りの蓮水さんだ。
グレーのスーツを着こなした蓮水さんは私を見ると、ニンマリ、正しくそう表現するのが良い底意地の悪そうな笑みを向ける。
「……お久し振りですね。お変わりなさそうで、何よりです」
良く分からず、久し振りに会う客に対する口上と共にこちらも笑みを返す。
すると蓮水さんは「んふふ」と不気味な含み笑いを漏らし、一度閉じたはずの店の扉を開け、店の外にいたらしい人を店の中へと招き入れた。
蓮水さんを見た時には、おや、だったが、こちらは、あら、である。
何なら重ねて、あらあらあら、である。
「向日さんじゃないですか!これはこれは……」
感嘆の色を乗せた長い息が漏れ、つい、カウンターの中から身を乗り出してしまった。
蓮水さんに背中を押されて入って来た向日さんは、一ヶ月前とは比べ物にならない様相だ。
キューティクルを取り戻した黒髪は、胸元へと流され緩やかなカーブを描いている。
前髪も丁寧に巻かれているようで、化粧の施された顔が良く見えた。
ピンクブラウン系で統一された目元は水気を孕み、大きく見え、小動物を思わせる愛らしさを醸し出す。
チークも淡いピンクで揃えているようで、自然な血色感がある。
赤みを強めに入れているピンクリップは、潤いで下唇を柔らかく印象づけていた。
服装も随分と女性らしいもので、ボートネックのニットトップスに淡い紫のマーメイドスカートを合わせ、華奢なアンクルと細めのベルトのヒールサンダルだ。
一見するとピンヒールに見えなくもないが、スリムヒールで大人らしいシルエットを作っている。
見事に向日さんの持つ素朴な愛らしさに、年相応の大人の落ち着きを合わせていた。
「いや、お見事」と拍手してしまう程に。
「素敵です。本当に可愛らしく……あぁ、こちらの席へどうぞ。実に素晴らしいですね。えぇ、本物のシンデレラのようで」
「あの、ありがとうございます」
カウンター席へ案内すれば、私の正面までやって来た向日さんは、照れたように小さくはにかむ。
その笑顔もまた可愛らしいことこの上ない。
はぁ、と息を漏らし「一ヶ月で良くぞここまで」と呟いてしまう。
近くで見れば、肌ツヤも良く、化粧でカバーしただけではない潤いがある。
間接照明がメインの薄暗い店内だと言うのに、肌の白さが浮き立って見えた。
「顔色も良くなりましたね」と言えば、向日さんはこれまた恥ずかしそうに「食生活も、何と言うか、人間らしくなったので」と答える。
一体どんな食生活を送っていたのか、聞くのは止めておく。
「綺麗になったでしょう」
ドヤ顔で向日さんの隣へ腰掛ける蓮水さん。
これには素直に「えぇ、本当に」と頷いた。
綺麗になったということは、自信もつくということで、丸まりがちだった背中もシャンと伸び、右往左往泳いでいた視線は真っ直ぐで、活力に満ち溢れている。
陽の光の中で咲き誇る花のような生命力すら感じる。
私はありったけの賛辞を込めて言葉を重ねた。
その後、聞けば蓮水さんプロジェクトはバーを出た直後から始まり、この一ヶ月は髪のケアから足の爪のケアまで、文字通り頭の天辺から爪先まで美を磨いていたらしい。
内容がかなり濃く、起床時間から睡眠時間、三食のメニューまで決められていたとか。
どんなジムでも、そこまでしないだろう、と思ってしまったが。
「それじゃあ、本日はお酒も解禁で?」
「えっと……」
「良いわ、奢る約束だもの」
蓮水さんの首肯に、向日さんがパッと笑む。
何だか微笑ましい気持ちになり「では、最初の一杯は私が奢りましょう」と申し出る。
前回、蓮水さんにチップも貰ったし、と。
向日さんが何かを言う前に、タンブラーグラスを手に取り、氷を入れ、カシスリキュールと炭酸水を注ぐ。
氷の涼し気な音と共にステアし、スライスレモンを飾れば、カシスソーダが完成する。
店の名前が刻まれたコースターを滑らせ、その上にグラスを置けば、向日さんは「綺麗な赤」と呟く。
私はそれに笑い「カクテル言葉は『あなたは魅力的』というんですよ」と告げれば、グラスを両手で持ち「カクテル言葉?」と聞き慣れない様子で小首を傾げる。
その様子も、様になって見える。
「花言葉はご存知ですよね?それと同じで、カクテルにも一つ一つカクテル言葉というものがあるんですよ」
「へぇ……。ちょっと楽しくなっちゃいますね」
「それは良かった」
グラスに口を付け、小さく喉を上下させた向日さんの「美味しい」を聞き、私は蓮水さんの分に取り掛かる。
何にしようか、と並ぶグラスと向き合えば、向日さんは上機嫌に自身を振った元恋人とも先日会ったという話をした。
曰く、その元恋人は最初は向日さんに気付かなかったそうだ。
実に見る目のない男だったようで、しかし、口にするのも良くないので頷いて話を促す。
向日さんの方から声を掛けたらしく、元恋人は大層驚いたようで、驚くことに復縁まで迫ったとのことで、私はグラスを倒しそうになる。
視線を上げれば、蓮水さんも聞き及んでいたようだが、納得のいっていない話らしく眉根を寄せていた。
そりゃそうだ。
だが、向日さんは気付いた様子はなく、白いストーンの付いた爪でスライスレモンを突っつきながら「勿論、断りましたよ」と朗らかに笑う。
こちらも、そりゃそうだ、である。
「でも、その後、同じ職場の人からも食事に誘われて」
「……うん?」
倒れかけたグラスを掴んだまま、私はニコニコと笑みを絶やさない向日さんを見た。
女の子とも乙女とも言える、愛らしさと華やかさがそこにはあるが、何だか雲行きが怪しい。
蓮水さんへ視線を向ければあからさまに逸らされた。
「私、次に進めそうです!」
「……えぇ、うん。それは、良かったんですが、その」
「それもこれも、蓮水さんとバーテンダーさんのお陰です!ありがとうございます」
勢い良く下げられた頭に、私はまた、うん、と言うしかない。
蓮水さんも「本当に、綺麗になったわよ」と言っているが、若干視線が噛み合っていない。
それでも、向日さんは嬉しそうに、えへへ、と笑い、私が問い掛けたいことは、軽やかな電子音で更に掻き消された。
「あ、私……」
「えぇ、どうぞ」
向日さんのスマホからの着信で、音の長さからするに電話だろう。
立ち上がるのを見て、店の扉を開けに行けば、向日さんはチークとは違う赤みを頬に乗せて、何度か頭を下げて店の外へ出た。
数分は確実に戻って来ないだろう。
私は素早くカウンター内へ戻り、身を乗り出して蓮水さんを睨め付ける。
「どーいうことですか」
口調も間延びし、接客業としてはあるまじき態度で詰め寄る。
蓮水さんは「あー、えぇ、まぁ、うん」などと煮え切らない相槌だけを適当に繰り返し、じっと瞬きもせずに見つめる私の視線に耐え切れなくなった様子で、ガックリ、項垂れた。
一ヶ月前の向日さんを見ているようだ。
「私は確かにフェアリーゴッドマザーさながらに、とは言いましたが、本当になれなんて言っていませんよ!」
「そんなこと分かってるわよ!」
「アレは私なりの小粋な計らいで、私は貴方のフォローをしていたんですよ!!」
「そんなことだって知ってるわよ!!」
額をぶつけ合う距離で小声で、しかし、語気を強めて言い合う。
初老の男性が「若い若い」と繰り返し、ウィスキーを飲んでいる。
「あぁっ!信じられません。散々、想い人に対して辛辣な言葉を投げた癖に、自分好みに仕上げた癖に!それを!あろうことか全く関係のない男にかっ攫われるなんて!!」
態とらしくその場で顔を覆う。
頭上では蓮水さんが短く唸った。
事実、蓮水さんは向日さんに好意を寄せていた訳で。
最早ツンデレと言っても有り余るツンっぷりを発揮していたところを、私が助け舟を出していたのに、この結果である。
当人である向日さんは何も気付かず、新しい出会いを喜んでいるのも頭痛を覚えるが。
「あぁ……本当に最低です。最悪です。この世の終わりです」
「終わらないわよ」
「蓮水さんの人生は終わりです」
「勝手に終わらせないで頂戴」
絶望に視界を狭めながらも顔を勢い良く上げれば、蓮水さんは私の頭と自分の顎をぶつけないよう素早く身を反らす。
それくらいの機敏さが恋愛にもあれば良かったものを。
流石に呆れの溜息を隠せない。
「ボビー・バーンズでも作ろう」
頭を振り、渋々、蓮水さんへのカクテルを作ることにする。
カクテル言葉は『言葉が見つからない』正しくその通りである。
アルコール度数も高めなので、丁度良いだろう、そう思い、ミキシンググラスを手に取ろうとすれば、何故か斜め前からお札が差し出された。
顔を上げれば初老の男性。
相変わらず傍らにハードカバーの小説を置いているが、読み進めているのかは謎だ。
「マルガリータにしておやり」
私が何事かを問う前に答えられ、つい、笑みを忘れて目を瞬く。
「そんな、甘やかさなくて良いんですよ。蓮水さんの自業自得です」
「アンタっ……確かにそうだけど」
私が黙っていろと言わんばかりに胡乱な目を蓮水さんへ向ければ、初老の男性は腰を上げ、私の懐にお札を捩じ込んでくる。
「良い、良い」と言いながら。
目尻には深い皺が刻まれ、それが慈愛の色にも見える。
結果、私はまた、深い息を吐き出して「畏まりました」と恭しく初老の男性へ向けて頭を下げるのだ。
「若い」何度も繰り返される言葉と一緒になって、その初老の男性は本を捲る。
あぁ、読んでるんだ、とどこか輪郭のボヤけた心情で見つめ、冷蔵庫からライムを一つ取り出す。
半分にしたライムの果汁でカクテルグラスの縁を濡らし、塩を付けた。
シャイカーの中にテキーラとホワイトキュラソー、ライムジュースを入れて、バーテンダーを目指す切っ掛けとも言えるシェイクをする。
氷とシェイカーとがぶつかり合う音が響く。
その隙間に「でも、本当に綺麗になったでしょう」なんて蓮水さんの独り言が差し込まれ、私は更にシェイカーを強く振った。
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