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一
キィ、と扉を押し開けると、そこはオーセンティックなバー。
下町の路地裏にある小さなその店は、私が一人でお酒を飲みたい時のご用達だ。
「いらっしゃいませ」
ソフトオールバックの黒髪、真っ白なシャツにジレを着て、キチンとネクタイをした清潔感溢れるマスターが、カウンターの向こうから微笑とともに声を掛けた。
「こんばんは」
間接照明の店内には一人客がぽつりぽつり。みんな端や隅の席に座っている。
「どうぞ」
マスターに促されて、私はカウンター席に座った。
「いつものでいいですか?」
「お願いします」
私ははぁっとため息をついて、マスターが手際よくカクテルを作るのをぼんやり眺めた。
「ずいぶんお久しぶりですね」
ジントニックをこちらに差し出してから、マスターが言う。
「そうなんです。彼氏の束縛がキツくてこういうことできなくなっちゃって。でも、ようやく別れてきたところなんです」
「そうでしたか」
私は大袈裟にため息をついて、ジントニックを喉に流し込んだ。
「なんだか、馬鹿みたいな時間過ごしちゃいました。我ながら一年近くもよくつき合ったと思います……」
本心とはまるで違う愚痴だった。
彼のことが大好きだった。
束縛がキツかったのは本当だけど、私は嫌じゃなかった。愛されてるって実感できたから。一人でバーに来るより、彼と繋がる時間や一緒に過ごす時間が幸せで大切だっただけのことなのだ。
でも、いつしかケンカが絶えなくなった。別れを切り出したのは彼だった。
「以前よりずいぶんやつれたように見えたのは、そういうわけだったんですね」
え、私――やつれてる?
おそらく私に寄り添う気持ちで発されたのであろうマスターの一言は、失恋に傷ついた心に追い討ちをかけた。
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