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最近の私はすこぶる調子が悪い。
その原因はきっとあれだ。
三年間付き合っていた彼に振られたこと。
高校三年の時、確か六月。よく雨が降っていたことと、彼と付き合うことになった放課後の教室の匂いはまだ鮮明に覚えている。
学生の時はお金もなかったので、放課後一緒に帰ったり、図書館デートをしたり。初めてのことだらけで浮かれている自分すら、二人でいる空間まるごと好きだった。
私は就職、彼は進学組で、お互いに励まし合って乗り越えた。本当は彼と一緒の大学に行きたかったけれど、ソクバクするカノジョみたいに思われたくなくかったし、これといってやりたいことも無かった。だから就職を選んだ。
本当にそれでよかったの? と聞かれても分からない。
実際、分かっているのかもしれないけれど、分からないふりをしている方がいい。
その方が、痛くない。
就職して一年目は特に問題もなかった。学生時代には手に入らなかったお金もそれなりに貰えたし、彼も大学生だから時間に自由がある。
休日はお互いに予定を合わせてデートもした。高校生の時には行けなかった場所へ遊びに行って、ああ、なんか大人のデートっぽいな……。とソワソワしたこともあった。
事態が急変したのは、ちょうど今年の四月から五月にかけての一、二週間。
彼は普段、連絡をしたらすぐに返信を返してくれていたはずなのに、ある日を境にそのスピードが極端に遅くなった。
最初は忙しいのだろうと考えていたけれど、そうではなかった。
「別れよう」
突然のことだった。デートの帰り道。頭が真っ白になった後で、なんでこのタイミングで? と思った。今日一日、私だけが楽しんでいたみたいで自分がバカバカしくなってしまった。せめて、別れてくれませんか? みたいに言葉の最後を疑問形にしてくれたらまだ何とかできないだろうかと思えたけれど、別れよう。と言われてしまってはどうにもできない。
それでも絞り出した「どうして?」の声に彼は、ほんの少し痛みを堪えるみたいに目を細めて言った。
「好きな人ができたんだ」
それからどうやって帰ったかは覚えていない。別れたくない、と彼に言った気もするし、何もしないままだった気もする。
ただ、それすら覚えていないくらい冷静でいられなかったのは確かだった。
その日からだ。身体に空気が重くのしかかってくるように感じるのは。
仕事も細かなミスをすることが多くなった。
あの人と付き合うまでは一人が普通だったのに、いざ改めて一人になると、こんなにも生活に支障をきたすなんて。どうかしている。
休日。ずっと家に閉じこもっているのも息苦しくなって、外に出掛けることにした。
気晴らしになるかと思ったのに。二人で歩いた道にやってくると、どうしても思い出してしまう。一人の時はどんな風にこの道を歩いていたんだったか。忘れてしまった。ああ、もうどこを歩いても駄目だな。
心の中でぼやいていると、小さな雑貨屋を見つけた。
何もしないまま帰るのも嫌だったので、中に入ることにした。
カウベルが鳴り響く。カウンターの女性が「いらっしゃいませ」と言った。静かでいて芯のある声だった。けれどトゲはない感じ。
店内を適当にうろつく。
鳥をモチーフにした置物。外国のイラストとかでよく見かける、顔の付いた太陽が印刷されたノート。羽ペンにどんぐりのやじろべえ。
様々な雑貨が並ぶ店内で、一つ、気になるものがあった。
マグカップ。どこでも見かけるようなものだったけれど、それにはポップが付いていた。
これ以上涙を流したくないあなたに。
そう書いてあった。どきりとする。
ここ最近よく泣いてしまうようになった。あの人のことを忘れられていないからなのだと分かっている。けれど、こればかりはどうしようもなかった。
時間が解決してくれるほど甘くはないのかもしれない。分かっていても早くその日が来ることを望んでいた。
これ以上泣かなくて済む? おまじないがかけてあるとかそういう話なのだろうか?
それを持って先ほどの店員さんに訊いてみることにした。
「あの、このマグカップなんですけど、あのポップって一体どういう……」
彼女は質問の内容を理解するとともに薄く笑みを浮かべて話し始めた。
「このマグカップは、涙を閉じ込めることができるんです」
「涙を閉じ込める?」
「はい。目からこぼれ落ちる前の涙を、閉じ込めておくことができるんですよ」
どういうことだろう? きょとんとしていると、彼女は続けた。
「こぼれ落ちる前に涙をこの中に閉じ込めてしまうので、悲しみの感情もすっと消えてくれるんですよ」
「はあ」
ちょっと怪しいなあと思った。それを見透かしたように
「怪しいとお思いでしょう。確かにそうですよね。もしよろしければ一度だけお試しで使ってみませんか?」
「……え? いや、それは」
そこまでしてもらわなくても。そう思ってマグカップの棚を見る。ふと値札が視界に入る。値段は千円。千円、か。値札を凝視する。店員さんは首を傾げた。
「買ってきてしまった……」一人呟く。
最悪、先ほどの店員さんの話が嘘でも、笑い話の種にしてしまえばいいか。そう思って、一つ買ってきた。
近くでまじまじと眺める。いたって普通のマグカップだ。おかしなところは特に見当たらない。
ため息をついて、テーブルの上に置く。元々マグカップは持っているから、いっそのこと花瓶の代わりに使ってしまおうか。
頬杖をつく。
そういえば店員さん、ちょっと気になることを言ってたな。
そのマグカップに溜まった涙は、必ず水場で処理をしてくださいね。普通に流してしまえばそれで構いませんが、必ず、洗面台やシンクに流してください。別の場所にこぼしてしまうと少し面倒なことになってしまうので。
──あれは一体どういうことだったんだろう? 面倒なことになるって。何だか含みのある言い方だったけれど……。
その日から私の部屋には新しくマグカップが仲間入りした。
最初は疑っていたマグカップの効果はすぐに出た。会社の中、休日の出掛けている時間。相変わらず私は、思い出したくないはずのことをさらりと頭の中で再生する。油断している時に限ってそうなる。
けれど、いつもと違う。
悲しい感情が嘘みたいにすうっと消えていく。数秒後にはあっけらかんとしている。自分でもそのことが驚きで、少し興奮してしまう。
あのマグカップ、本物だったんだ!
魔法のマグカップと暮らし始めて一か月が過ぎた。外はすっかり夏の気配に包まれている。強い日差しがじりじりと道路を焼く。
私はテーブルの上のマグカップを眺めている。一体どんな仕組みなんだろう。一切分からないまま。
ただ、これを観察していて分かったことがあった。
私に悲しい感情が押し寄せてきたとき、どこからともなくマグカップの上に水滴が現れてこの中に落ちる。それを合図に私の感情がすっと元に戻るのだ。
水滴は深い青色をしている。少し宝石みたいで綺麗だな、なんて思った。
けれど、カップの底に溜まっている水に触れようとしてもなぜか触ることができない。そのことが分かったときは狐につままれたような感覚になった。
どうにかしてこの水に触ることはできないだろうか。ここ最近の私の悩みはそれだった。
こんな不思議なもの、一度触ってみたい。
道具を使ってみる。スプーン、箸、ペン。使えるものは何でも使ってみた。けれど結果は芳しくない。
どうすればいいんだろう? 考えるほど分からなくなる。
「うーん……」
マグカップをあらゆる角度から眺めてみる。
あ、しまった。
心の中でそう思うのと、水が頭上に降り注いだのはほぼ同時のことだった。
「……あれ?」
目を瞑って、水に濡れる覚悟をしていたのに、いつまで経っても降ってこない。疑問に思って目を開ける。
消えた? どうしてだろう。
首を傾げていると、今度は外の景色が一変する。
どざああああ。
突然、雨が降り出した。地面が削れるのではないかというほどの勢い。
嘘でしょ? ついさっきまで、数秒前まであんなに晴れていたのに。
今日の天気予報だって一日中晴れだったはず。
あることに気付いて、私はそっとマグカップの方を見る。
もしかしてこれって、私が今までに貯めてきた……。
あの日から雨はずっと降り続いている。止む気配はまだない。少し肌寒いくらいだ。この雨はもしかしたら、私の中のいろんな感情を綺麗に洗い流してくれているのかもしれない。
季節外れの雨は、私の中で燻っていた、重くのしかかるような熱をすっかり冷ましてくれた。
……とはいえ、もう止んでくれてもいいんだけどなあ。
そんなことを考えながら、空っぽになったマグカップで何か飲もうとお湯を沸かしている。
──この雨が止んだ時には、きっと。
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