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1
ボクの視界には、見慣れた景色が広がっている。
空の色、そして靄があるあたり、今は早朝だ。ボクだけが家の前でただポツンと立っている。
不思議な事は、この世界は無音だった。鳥も鳴かなければ生活音すら聞こえない。
何か変化はないのか少し待ってみたが、変わりはない。
無音。
鳥や人も、虫さえいない。この異常下は、夢だからなのだろうと仮定する。
「誰もいない……」
そう呟いてみたが、誰も返事をしてくれない。
「ここは君の夢の中だからだよ」
ボクの考えに反して聞き慣れぬ男性の声が聞こえた。
ボクは驚きながら周囲を見た。ガーデンフェンスの向こうには、見知らぬ男が立っている。
先程まで、ほんの数秒前まで人は居なかった。それに、変化は無かった筈だ。それなら、この男は、いつ現れたのだろう。
ボクに声をかけた長身の男。
大きくて黒い傘を杖のように持っている。血のような紅い瞳。葬儀の帰りにも思える黒のスーツ。オールバックで足首まで伸びた黒髪は一つ結びにされており、まるで紐のようだ。
その容姿が、なんとも奇妙に思えた。
「……あなたは、誰ですか?」
「私に驚かないでくれるのは助かる」
男はそれ以上、近寄る気はないのだろう。柵を開けて、庭に入ろうとはしない。それどころか、ボクをじっと見たまま動かない。
「私は夢魔。夢に巣くう悪魔だよ。今は、君の夢にお邪魔しているね」
それは悪い冗談に思えた。だが、紅い瞳はそれを冗談とは言わせない雰囲気を抱いている。ボクは反応に困って、肯定も否定も出来ず呆れて笑った。
「ドリームキャッチャーを吊していたと思うが?」
男はボクの笑い方を真似たのか、不器用に口元を歪める。面白そうにしているのに、目は一つも笑っていない。
「悪夢を絡めとる呪い道具は、私には無効だ。私とその道具では、根本が異なっている。ようするに、生まれた場所が違うんだ」
「どうして、ボクの夢の中に?」
「単純に興味があったからだ。とても興味がある。何故こんな夢を視てしまうのか、それが気になってね」
「夢を見るのに理由がいるのか?」
「ああ。いるさ。夢は無意識の内に視るもの。閉じ込めている感情が出てくる、恐怖、欲望、願望。夢は脳の情報整理でもある」
夢魔はそう言い、品定めするかのようにボクを見る。
「さて、君が友好的であるうちに、幾つか質問がしたい。君の名前と年齢、家族構成。それを知りたい」
ボクは黙って男を見た。
「ボクが悪魔に教えると、本気で思っているのか?」
「警戒するなら、それでもいい。賢明な判断だ。しかし、もし君が困った時、どう声をかければいいのか分からない」
「ここはボクの夢の中だ。困る事なんてあるのか?」
「夢だからこそ、制御出来ない理不尽はいくらでもある。……それに、これは強制ではない。教えてくれなければ、私が調べるだけさ」
夢魔はそう言い、片目を閉じる。余裕な態度を見せる夢魔とは反対にボクは恐怖を覚えていた。調べられる。しかも、悪魔に。だったら、自分から曝け出した方がまだいい。余計なことまで知られたら困る。
「……ボクはスティーブ。今年で四十になる」
「聞き分けの良いニンゲンだ。スティーブ。相応に私の名前も教えてあげよう」
「結構。夢魔に助けを求める事はない」
「そうか、それは残念。……それで、君に子供はいるかい?」
「いる。一人息子だ」
それを聞いた夢魔は、ニヤリと笑った。
「そうかい、スティーブ」
その笑い方は知っている。けっして良い意味では受け取れない、意地の悪い感情。
「君の息子の危機だ」
夢魔がそう言うや否や、耳をつんざくような激しい音が、一度辺りに鳴り響いた。
ボクは目を見開き、何が起きたのだと夢魔を凝視する。彼は笑みを絶やさぬまま、静かに上を指さした。その方向はボクの家、二階。おそらく子供部屋だ。
「困っていたんだ、スティーブ。この深刻な事態をどう伝えればいいのかと」
2
あの夢魔に悪態すらつけなかった。
衝動的に走り出し、乱暴に玄関の扉を開ける。
後方にいる夢魔が「気をつけた方が良い」と、遅すぎる忠告をしている。
ボクは転げるように二階に駆け上がり、見慣れた部屋を見渡す。
そこにケイリーは、……ボクの息子はいない。
ケイリーは、どうしようもないヤンチャ坊主だ。
日頃から注意しているのにこうして部屋は散らかったまま。ベッドも机の上も物が散乱している。
学校に通って二年経っているのに整理整頓すら覚えられない有様。どこに何が置かれているのか、ボクは理解出来ない。
息子の名前を呼びながら机の下、ベッドの下、クローゼット、できうる限り彼が隠れていそうな場所を探す。
結局、ここに彼は居なかった。
家には妻もいる筈だが、息子と同じように姿が確認出来ない。
夢魔の「君の息子の危機だ」という忠告が事実だったことをいやでも知らされる。
数十分かけて調べてみても、彼の部屋にも、その付近にも、ましてやこの家には誰一人として人間の姿を確認出来ない。
「学校鞄がない」
息子を探し、どれくらい経っただろう。
再度、彼の部屋に戻り、探索する。ふと、この部屋には、息子にとって大事な物がないことに気がついた。最初から違和感があったのにどうして気が付けなかったのだろう。
普段なら、机の横にかけられている通学用鞄が見当たらない。という事は、彼はまだ学校にいるのか、それとも下校途中のどちらかだ。
「……は?」
机の上を見て、驚く。
先程まで、物が散乱していたはずだ。机の横を見たのはたった数秒の間だ。その短い間で、机の上にあったあ物がきれいさっぱりなくなっていた。
片付いている。というよりは、乱暴に床に落とされたといった方が早い。床には音もなく、物が散らばっている。
「本当に夢の中に居るんだな……」
驚きのあまり、思わず声が出てしまう。
机の上には、画用紙が一枚だけ置かれている。
『彼は死んだ』
赤いクレヨンで描かれた短文。
乱暴で癖のある字は、息子のもので間違いない。殴りつけるような筆跡は、ボクの心を酷く乱してくれる。
死んだ? 誰が? 彼って? それよりも、これはいつ、何故書いたんだ?
いくら考えても分からない。
それでも、分かることは一つある。
死んだ誰かはケイリーではない。
そんな確信があった。
『死んだ』というのは過去形だ。幼いケイリーがこんな奇怪な文を書く理由が無い。けれど、どうして書く必要があったのだろう。
そういえば、とボクは思い直す。夢魔は、ここがボクの夢だと言った。
――……夢は無意識の内に視るもの。閉じ込めている感情が出てくる、恐怖、欲望、願望。夢は脳の情報整理でもある。
あの発言を信じるのならば、ボクはケイリーに死んだと書かせたい願望か、欲望かを持っている。もしかしたら、そう書かれるのが怖いと思っている。
それは、なぜ?
混乱が混乱を呼ぶ。この世界が、夢か現実なのかも判断出来ていない。
この世界を夢だ、と言ったの夢魔だ。彼の話を信じる証拠がない。強いて言えば、耳が痛くなるほどの静寂が異常だと思うくらいだ。
これがもし本当に夢だとしたら、嫌な夢だ。それこそ悪夢に違いない。
「早く眼を覚まさなければ」
ボクは頬を抓る。
こんな悪夢から目が覚めるように、指先に力を込める。
それでも景色は歪まない。
頬を抓ったままボクは目を閉じた。
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