さようなら、せつなるきみよ

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 かろり。かとり。  今日は二つ。薄い朱と浅い藍の、小指の爪程の小さな、ちいさな石。掌に乗せたそれらを瓶に落とすと、軽やかな音が部屋に響いた。  かろり。かとり。  すでに瓶の中には色とりどりの石が詰められていて、あと少しで溢れ出てしまう。勉強机の上にある瓶は全部で五つ。六つ目を買ってこなければ、蓋が閉められなくなってしまう。  それは、きっと駄目なこと。溢れて、零れて、どこかに飛んでいってしまう。そんなことにならないようにと瓶に詰めているのに。  かろり。かとり。  一番初めに詰め出した瓶を手に取って、窓から差し込んでくる陽の光に透かしてみる。どれもこれも半透明で、光が反射して眩しかった。きらきらと、さらさらと、光溢れる石は涙が出るくらい、哀しくなるくらい、綺麗だった。 「また泣いてるの」  ふと、声が聞こえてくる。ここは私の部屋で、私だけの部屋で、家にはまだ誰も帰ってきていない。テレビも携帯電話もない部屋で音が、声が聞こえてくるのはあり得ないことだ。だけど、私は少しも驚かない。 「泣いてなんかないよ。ただ、綺麗だなって思ってただけ」  ほら、綺麗でしょ。  振り向いて彼に瓶を傾けると、彼はただふぅん、と喉を鳴らすだけだった。こんなに綺麗なのに、彼は一度も綺麗だと言ったことはなかった。  春のような淡い緑も、潜り込んだ先に広がるような深いコバルトブルーも、怖くなるくらいに鮮やかな紅も、見ているだけで落ち着かなくなってしまう黄も、人工的には作り出せないような不思議な色をしている。何十、何百とある石に一つだって同じ色はない。  だから、綺麗だと思う。たった一つ、自分だけを主張するちいさな石が、とてつもなく尊くて、儚くて、哀しいと思う。 「今日は何色だったの」  ふと、静かに沈んだベッドに体が斜めを向いてしまう。私が両膝をついて乗り上げたベッドは一人用で、使い始めてからもう十何年も経っている。さっきは私の体重に負けて音をあげていたのに、彼には優しいだなんて、世の中は不公平だ。隣に座った彼にバレないよう、ほんの少しだけ舌を出してから、机に並ぶ瓶へと目を向ける。 「今日はね、朱色と藍色だったの。どっちも淡くてかわいいの」  今日は、素敵な一日だったと思う。仲の良い友人が甘いいちごのチョコレートをくれた。帰り道で出逢ったおばあちゃんが挨拶をしてくれた。とても、素敵な一日。 「ああ、だから今日はあの瓶が出てないんだ」  、どうして、そんな酷いことを言ってくるのだろう。分かっているなら、何も言わずそうなんだって流してくれたっていいじゃない。  また音もなくベッドから立ち上がった彼は、勉強机の隣にある三段の棚に向かう。扉の付いたその棚は隠し事をするには最適で、あそこには私の見たくない、忘れてしまいたいものたちが詰まっている。  お願い、そこを開けないで。今日はとても、いい気分なの。このまま柔らかくて、甘ったるい夢に落ちていきたい。落ちて、沈んで、眠りにつきたいの。 「ここには、こんなどす黒い石ばっかあるのに、」  なんで見ない振りばっかすんだよ。  彼は真っ直ぐに私を向いていて、その目はきっと、猛禽類の爪よりも鋭く尖っているだろう。耐えられない、涙が溢れて止まらない。透きとおる石はぼやけて、私の世界は曖昧になってしまった。 「ほら、こんなにいっぱい」  ぼとり、ぼたり、どすり、ぼたり。  白いシーツの上には、小指の爪程の、絵の具を何重にも混ぜて出来上がったかのような汚れた石が溢れかえっていた。どれもこれも見たくないような色ばかりで、それがこの色とりどりの綺麗な石と同じだとは信じたくない。これが全部私から出たものだなんて、考えたくもない。 「これは昨日、これは……一週間前かな。これは、忘れた」  黒、黒、黒。真っ白だったシーツは、いつの間にか黒で埋め尽くされてしまった。どれ一つとして同じ色ではないはずなのに、私の目には全部が同じ黒に見えてしまう。いや、見えてしまうんじゃない。同じなのだ。あれも、それも、これも、全部全部、同じ感情なのだ。 「ほら」  彼の手には、真っ黒い石。汚れていて、澱んでいて、胸が圧し潰されているかのような苦しさに息ができない。涙が溢れて、零れて、ぱたり。ぽとり。泥のように濁った黒を歪めていく。 「ほら、はやく」  もう一度彼に促されて、彼の細くて節の浮かぶ親指と人差し指に抓まれた黒を口に含む。唇を押して、歯にかつりと当たって入り込んできたそれは味も、匂いもしない。舌に触れた途端とろりと、まるで待ってましたとばかりに融け出すそれは、するりと喉の奥に消えていった。 「どうしたの」 「……朝、道端に死んでる鳥がいたの。まだ赤ちゃんだった。助けることも、埋めてあげることもできなかった」  震えた声は、私の口から吐き出されているはずなのに、どこか遠いところから聞こえてくるみたいだった。靄がかかっていて、掠れていて、いつも聞いている自分の声ではなかった。  自分の声ではないと違和感を覚えるはずなのに、それでもこの声は私だと解ってしまう。だって、これは昨日の話だから。昨日の、私が思ったことだからだ。  ほら。  温かい声と一緒に、また唇に固い感触がした。ぼやけた視界は相変わらずで、それでも彼がもう猛禽類みたいな鋭い目をしていないことはきちんと伝わった。彼は、優しくて温かい人だから。  舌に触れて融ける石は、私の感情が押し込められている。辛い、苦しい、哀しい、しんどい、泣きたい、逃げ出したい。そんな感情ばかりが形になって、そうして黒く染められた。全部、ぜんぶ、私だ。 「友だちが休んだの、風邪だって。だから私は友だちの代わりに日直をしたの。ただ、力になりたかっただけなの」  でも、登校してきた彼女には先生に媚びを売って楽しいって聞かれてしまった。そんなつもりなんてなかった。確かに私は国立大学を志望しているけれど、そんな真似をしてまで大学に行きたいなんて思ってない。 「雨は強くて、雷がずっと鳴ってた。停電になるまでではなかったけど、家には私一人で、誰もいなくて、怖かった」  生まれてからずっと、雷が怖い。小さい頃はタオルケットに包まって、父親に抱かれて、母親の子守歌を聞いて眠っていた。そこは安心できる場所だと知っていたから、私は何も怖がらずに穏やかな夢まで見ることができていた。でも、この家には私しかいない。二人とも忙しくて、最近では顔を合わせることもない。 「好きな人がいた。彼も私のことを好きでいてくれているものだと思っていた。だけど、そうじゃなかった。彼は私のことなんか見ていなくて、私の隣をずっと見ているだけだった」  私の親友を好きだった彼。親友には彼氏がいて、仲が良くて、私を含めた三人で何度も遊んでいた。親友には絶対に向こうも私のことが好きだよ、と言われて、親友カップルのようになりたいと願って、そうして彼に告白をした。恥ずかしかった。寂しかった。ちっとも私を見てくれていなかったことが、どうしようもなく淋しかった。 「上手くいかないの、机に向かっても集中できなくて、授業も分からないことが増えてきて、やりたいことが分からなくなってくるの」  どこに進むべきなのか、分かっていると思っていた。幸いにも勉強はできる方で、特に苦労したことはなかった。なのに、今更分からなくなった。私は本当にそこに向かえばいいのか、不安になった。前が見えなくなって、足元がゆらゆらと揺れている気がした。 「幸せなはずなの。毎日しあわせなはずなの、なのに、途方もなく独りだと思うの」  両親共に健在で、不自由ない生活をしていて、学校でも友人は多い方で、たまぁに嫌味は言われるけれど次の日には元通りで、好きな人には振られたけれど引きずるようなタイプでもないから平気で。幸せだと思っていた。なのに、どうして、こんなに苦しいの。 「生きてよかったって思う。生んでくれて、お父さんにもお母さんにも感謝してるのよ。でも、だけど、どうしようもなく嫌になる」  嫌になって、そうして、嫌だと思っている自分が一番嫌だと思う。学校も、家も、どこもかもから逃げ出して、隠れたくなってしまう。そんな自分が嫌だった。大嫌いだった。 「なんで、ずっと言ってくれなかったの。俺になら言えるだろ」  ベッドを埋めた汚れた石を踏みつけて、彼は私の隣で蹲っていた。膝を抱えて、膝頭に額を擦りつけて、丸く小さくなって、泣いていた。  彼は、優しくて温かい人だ。そして、とんでもないお人好しだ。こんな私のことなんて放っておけばいいのに、彼は面倒だって顔をしながらもこうして隣にいてくれる。優しい、やさしい人。 「私は、勉強はできるけど、言葉は知らないから。上手く伝えることなんてできないの」  自分の感情も、想いも、感謝も、泣き言も、どれも上手く伝えることなんてできやしない。嬉しいも、楽しいも、清々しいも、私は上手く言葉に変えられないのだから、辛いも、哀しいも、苦しいも、言葉にできるはずなんてない。言葉にできなかった不明瞭で、適当な言葉を彼にぶつけることなんてやりたくなかった。 「それでも、俺はお前の声が聞きたいよ。だって、」  俺は、お前なんだから。  知っている、分かっている、ちゃんと、解っている。彼は、私自身だ。  結局、信じられるものは私だけなのだろう。だから、私は彼といる。彼と話して、彼とだけセックスをする。自分だと思えば、信じられると信じることができるから、だから私は彼といる。 「俺には言ってよ、俺はお前の味方なんだから」  唯一の味方で、たった一人の理解者だ。だって、彼は私だから。彼は私の味方で、同時に私は彼の味方だった。もしかしたら言葉なんて言わなくても彼には全て伝わってしまっているのかもしれない。私のこの色とりどりに澄んだ感情も、どす黒く汚れて澱んだ感情も、全部知っているのかもしれない。  だけど、だからこそ言葉にしたいと思う。彼は私自身で、私は彼自身で、全てを委ねることができると解っているからこそ、離れなくちゃいけないと、思う。 「ねぇ、いつか、私が言葉を知ったら、そうしたら私の話を聞いてほしい。眠くなっても寝かせてなんてあげない。ずっと、私の言葉を聴いて」  彼と離れるべきではないのかもしれない。彼がいなくなってしまったら、この部屋はどす黒い石で埋め尽くされてしまうかもしれない。あの三つの棚が、全て黒い石で埋まって、それでも足りないと溢れ出てしまうかもしれない。  離れられるかどうかなんて分からない。それでも、お人好しでやさしい彼に恥じないように、彼が私を彼自身だと胸を張れるように、独りで頑張らなければならない。  ずっと苦しかった。胸が圧し潰されて、喉が絞められて、涙も声も枯れて、独り死んでしまうと思っていた。それを、彼が救ってくれた。彼がいるから、私は今もまだ息をしていられる。ここに、立っていられる。 「ちょっとだけ、待っていて。すぐに逢えるか分からないけど、そうなるように頑張るから」  涙が溢れて、また世界がぼやけていく。彼がいる世界に、さよならを告げる。  ありがとう、さようなら。 「待ってるから、早く帰って来いよ」  帰って来るよ。すぐに逢えるように、やさしくて涙脆い彼が涙の海に沈んでしまう前に、きっと帰って来る。  きっと、きっときっと。 *****  かろり。かとり。  耳に触れる軽やかな音に、伏せていた目を開いていく。長く閉じていたせいで思うように眼球を滑ってくれない瞼はゆったりと、ゆっくりと時間をかけて動いていく。  白に染まる世界は眩しくて、動かしにくい瞼に何度も何度も命令をする。そうすると少しずつ潤って、スムーズに動かせるようになった。これも一つの頑張りだろう。そう思ったところで、私は今まで何を頑張っていたのだろうか、と不思議になった。  丸く開いた視界は白に埋まっていると思っていたのに、天井からは色とりどりの紙風船が吊るされていた。薄紙で作られたそれらは光を透かしていて、哀しいまでに綺麗だった。 「あ、起きた」  ふと聞こえてきた声はどこか聞き馴染みのある音をしていて、夢で見ていた世界と交じり合う。ああ、これは、この声は。 「おはよう、俺」 「……おはよう、私」  そうだ、この声は私だ。私の、唯一の味方であり、たった一人の理解者だ。 「いっぱい、聞かせてくれるんだろ」  そうだ。私は、彼に話を聞いてもらいたかったのだ。だから頑張ったのだ、だから頑張ろうと思えたのだ。  私はもう独りじゃない。だって、彼がいるから。彼がいてくれるから、私は言葉を伝えることができる。 「いっぱい、いっぱい、聞いてほしいことがあるの」  あのね、あのね。  君に聞いてほしい話がたくさんある。涙脆い君は泣いてしまうかもしれない。やさしい君は怒ってしまうかもしれない。お人好しの君は色んなことにありがとうと感謝を口にするかもしれない。どうなるだろうか、楽しみだ。  私は独りじゃなかった。  もうきっと、怖くないよ。 ***** 刹那プラス/vivi
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