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「大丈夫? 怪我は無い?」
彼女の第一声だった。
車椅子に乗っていた。世界がこんなふうになるまえの、記憶にあるままの彼女だった。見えないところに傷があるのではないかと不安で、俺は彼女の身体をべたべたと触っていた。彼女も、俺の身体を確かめていた。
嗚咽まじりの無意味な発声が、まともな言葉になるまでずいぶんかかった。
「良かった。生きてた」
彼女は静かに微笑んだ。
「障がい者用トイレに隠れてたの。扉が頑丈だし、鍵もかかるし、水もあるしね」
こんなときだったが、彼女の冷静な判断に舌を巻いた。
「君のお母さんは?」
「さあ」
わからない、と彼女は言った。それは重要な問題ではない、という感じの声だった。そんなはずは無い、無理をしている、と、俺は勝手に思った。自分の母さんの記憶が、思い出したくもないのに脳裏に浮かんだ。泣き癖がついてしまったのだろうか、俺は、嗚咽を押さえ込もうとして、喉を絞められるみたいな声をたてた。
「血がすごいわ。洗い流したら、きっとすっきりすると思う。シャワーってわけにはいかないけれど」
彼女は俺の、返り血でごわついた髪を撫でながら言った。
「そのあとで、話して」
障がい者用トイレの洗面台に、売店で借りてきたタオルを浸して、顔や身体を拭いた。売店に下着も置いてあったので、それも借りた。 障がい者用トイレの扉を閉め切り、俺は便器に座り、彼女は俺と膝を接するような位置に車椅子を据えた。おかしな光景だったろうが、見る者は誰もいない。 彼女は言った。
「でも、ありがとう。私のために来てくれて。ちょっと感動した」
そして、何気なくつけくわえた。
「学校の友達とか、大丈夫だったの?」
「え」
「私より、そういう人たちのほうが大事なんじゃないの」
「え?」
「ああ、やっぱり君、私と同じなんだわ」
「いや、君は一人だと心配だろう」
「そういうセリフはもっと早いタイミングで言わなきゃ」
彼女はニヤニヤと笑った。優しいのか底意地が悪いのか、よくわからなかった。
彼女に言われるまでもなく、わかっていた。
クラスメイトの顔、名前、誰一人思い浮かばなかった。大事な人などいなかった。ただ同じ空間を共有していただけだ。俺はただ、目立たぬように、何事も起こらぬように、じっと息を殺していただけだった。
「もしかして、あのときのこと、気にしているの」
「あの時って?」
「お母さんが、寿町の夜の店で働いてるって、噂が立ったじゃない? 誰だっけ、きみのお母さんの仕事のことで悪口を……それで君、大暴れして、誰の声も耳に入らない感じで、男の先生ふたりがかりでようやくとりおさえたの――
「……ごめん、その話ナシで」
普通のテンションで言ったつもりだったが、彼女は、俺の声に何かを感じたのだろう。黙った。
困った。母に関する話は、すごくマズかった。
「泣かないで」
彼女の手がゆらゆらと空中をさ迷ったすえに、肩に触った。
「泣いてない」
「ごめん、私ひとでなしだから、そういうの、気がついてあげられない」
俺は話した。母がアスファルトの上の赤い染みになったところまで話したところで、俺は耐えられなくなった。顔を覆ってうつむき、唇を噛んで必死に涙をこらえる俺の頭を不器用に撫ぜながら彼女は、
「お母さんはあなたに殺されることを望んでいたんだと思う」
そう言った。やさしい嘘だと俺は思った。だが、銃を持った警官でも容易に倒せないものを、俺のようなただの中学生が、一人で相手取ったのだ。幸運とか偶然で済ませるにはできすぎていた。
「変わってしまったあなたのお母さんの中に、あなたを愛している本来のお母さんがまだ残っていたんだわ。荒れ狂うユーイング変異の攻撃衝動に、きっと必死で抗っていたんだわ」
およそ彼女らしくないせりふだった。彼女がそんなことを信じているとも、信じたがっているとも思えなかった。でも、俺は信じたかった。それで何が変わるわけでも、何が許されるわけでもなかったのだけれど。
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