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 何であれともかく、俺は彼女の言葉によって救われたのだった。  俺はいったん待合室に戻り、自分と彼女のために自販機でココアとコーラを買った。 「さて、これからどうしたらいいと思う?」缶のプルタブを引きながら、彼女は言った。 「ここはここで便利だと思うけど」 「でも、隠れてる大人を探し出して皆殺しにしなくちゃいけないね」  彼女の言う意味は、わかった。今俺たちがいるのは、昨日までの世界とは別な場所なのだ。ユーイング変異に潜在する異常行動が、あらゆる大人たちに一斉に発現している。少なくとも、それに近い現象が起きている。大人は既に敵か、数日以内に敵となって襲い掛かってくる。二人が生活できるエリアを封鎖して、大人は発現のまえに殺してしまう。それが唯一の可能な選択だ。 「でも、警察とか、自衛隊とか、政府の機関が何か、対処してるんじゃないのかな」 「ラジオ、聞いてみる?」  彼女は、スマホを分厚くしたような形のポータブルラジオを取り出し、俺に持たせた。イヤフォンをつけ、選局ボタンを押した。砂の雨が降るような空電音だけだ。誰の声も聞こえなかった。  黙って彼女に返した。彼女は既に確かめていたのだろう。何も言わずに受け取った。 「君が一緒でよかった」俺は言った。 「君でなければ、俺はこんな覚悟、できなかった」 「それ私、喜んでいいのかしら」 「いいのさ」  彼女はしばらく黙った。やがて、ふぅ、と長い息を吐いた。そして、俺が一生忘れないだろうことをした。 「あなたが背負う罪の意識は、私には想像するしかないけれど、半分にしてあげる」  そうして彼女は俺の頬に手をあて 「殺しなさい。出会うもの全てを殺しなさい。家族も親戚も、知っている人も見知らぬ人も殺しなさい、手向かう人も逃げる人もすべて追い詰めて殺しなさい。私が命じます。私の騎士として、私の言葉に従いなさい」そう言った。  そして、彼女の指が探るように俺の唇に触れた。やがて彼女の顔が下りて来て、不器用なくちづけをしたのだった。 「やっぱり君は、中二病入ってるよな」だいぶたってから俺はそう言った。 「ちょっと、何よ」  包帯のせいでわかりづらいが、どうも顔を赤くしているようだった。 「思うんだが、ここを占拠というか、基地にするのはいろいろ難しいんじゃないかな」 「どういうこと?」 「鍵のかかる頑丈な扉は篭城には確かに篭城には便利だが、その便利さは誰にでも平等に働く。一つ一つの部屋を確認して、大人すべてを排除していくのは、どう考えても大変な手間だ。あの防火扉の問題もある。待合室の人たちをどうするか、っていうのもある。ここからスタートはハードモードだよ」 「じゃあ、イージィモードで始めるには、どこに行けばいいの? 私、そんなに遠くまで行けないわよ」 「俺が争いに巻き込まれずにここまで来れたんだから、無理なこととは思えない。それに、場所はこの近所と言っていい。そこなら、食料の確保もできる。なんてったって生産してるんだから。建物は頑丈で、周囲を壁で囲まれている。しかも、今は夏休み、それも普段の夏休みじゃないんだ、校内に残っているのは僅かな人数のはずだ」  彼女は口をすぼませて小首をかしげた。このあたりの地理を知っているはずはないと思ったのだが、 「ああ、わかった。農業高校ね」と正解を答えた。 「私には感覚的にわからないけれど、ここと同じ、市街地の南のはずれ、もともと人が少ないし、見通しがいいから危険をあらかじめ避けることもできる……驚いた、君、口癖みたいに『頭よくないから』とか言ってたけど、嘘よね。私なんかよりよっぽど冷静で視野が広いのね」 「それは、頭が悪いことと矛盾しないだろ」  頭がよくない、というせりふは、責任回避の呪文だったと、そのときになって俺は気づいた。そう信じて生きていれば、難しい話をもちかけられることも、複雑な人間関係に巻き込まれることも、難問の解決を迫られることもなかった。そういうことは頭のいい誰かが代わってやってくれて、自分は教室の隅で注目もされず問題にもされず、何より問題を起こすこともなく生きていけた。だが今は、これからは、それでは通用しない。 「不思議ね」彼女はそう言ってきゅっと口角を上げた。あの、天使の微笑だか悪魔の嘲笑だかわからない笑顔。 「さっきまで、顔ぐしゃぐしゃにして泣いてた人が!」 「オイヤメロ! 泣いてないし!」  そうして俺たちは笑った。信じられないだろうか。そのとき俺たちは、ちゃんと笑えたのだ。
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