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 俺と彼女が出会った、いや、再会したのは、ちょうど一週間前、この町で唯一の、というか近隣で唯一つの、総合病院でのことだった。  彼女は目の手術を終えたばかりで、俺は、やはり視覚に生じる奇妙な症状について、医者に相談に訪れたところだった。    最初に気づいたのは、授業中、ふと教室から見上げた昼間の月が、赤く見えたことだった。それはほんのわずかな間のことだったが、空の隙間に血が流れ込んだような強烈な色合いだった。そんなときは黒板の、白いチョークで書かれた文字がひどく見づらかった。何時間も続くわけではなかったから、さほど不便ではなかったが、ただ、気味が悪かった。  期末試験の最終日の午後、町で唯一の眼科のある厚生病院を訪ねた。若い、だが少しやつれた感じの眼科医は、一通り俺の話を聞くと、精神科を受診した経験は、と訊ねてきた。かっとなって我を忘れたり、興奮したあと記憶が跳んだりしたことはない?   それは、あった。だが、ずいぶん昔のことだ。  染色体検査、したことある? ないか。じゃあ、ちょっとやってみよう。今日このあと時間あるかい。うん、ちょうどいい。悪いけど、三時ぐらいに準備できるから、それまで待っていてくれないか。 そう言われて、診察室を放り出された。三時、というのは殆ど一時間後だった。待合室の隅の自販機でコーラを買って、目的もなく駐車場脇の緑地を歩いた。  バスケットコートぐらいの広さはあるだろう。病院が出来る前から生えていたような、大きな広葉樹があちこちで枝を広げ、芝生が広がり、それらの間を縫うように、まがりくねった小道が延びていた。行く手に、四つほどのベンチに囲まれた広場のような場所が見えた。スズメが集まっていた。車椅子に乗った背中が見えた。パン屑を蒔いているのがわかった。黒髪を無造作に後ろで束ねた頭。パジャマの上からでもわかるきゃしゃな身体。たぶん、十四、五歳、俺と同じくらいの歳だと思った。  じゃり、と靴の下でかすかな音が立った。  ばっ、と一斉に雀たちが飛び立った。 「こんにちは」  と、こちらに顔を向けないまま、少女は言った。 「ごめん。スズメ……」 「ちょっと驚いただけ。またすぐ戻ってきます」  まともに挨拶なんかされてしまったので、そのまま通り過ぎるのが失礼みたいな気がした。近づいて、彼女のそばのベンチに腰を下ろそうとして、気がついた。  彼女の顔には、両目をしっかりと覆い隠すように包帯が巻かれていた。 「このあいだ、目の手術をしたんです。傷が治ったら、もとどおり見えるようになるそうです」  こちらの考えていることを読んだように、彼女は簡潔な説明をした。 「ああ、そうなんだ」  何と言っていいか分からなくて、意味のないことをつぶやいた。 「俺も、眼科に診てもらいにきたん、です。そしたら、何か、染色体検査だか、するって言われて、その順番待ち」 「白いものが赤く見えたりとか?」 「え」  彼女は、表情の読みにくい顔で、ふふ、と笑った。 「ユーイング変異の検査ですね、きっと」 「ユーイング?」 「多いんですよ、すごく。遺伝子の異常。私は最新のデータはわからないけど、新生児の六割がそれだって、まだ見えてた頃のネット記事で」 「聞いたことない」 「過半数に変異が起きてたら、それはもう、異常とか障害とかではなく、進化なんじゃないかなって思うのだけれど」  ちょっと変わった喋り方をする女だと思った。クラスにはいないタイプだ。誰かを思い出しそうになる。誰かに似ている気がする。 「それ、何が問題なの」 「扁豆体の機能の一部を阻害、というか、逆ですね、ある行動の抑制を解除するんです」 「ごめん、ぜんぜんわからない」  彼女は、きゅっと口角を上げた。 「共食いの遺伝子」 「え」 「類人猿にはだいたいあるし、ネズミでも犬でも、行動は観察されてるんです。同じ種の、特に子供を殺す行動。サルの群れでボスが交代すると、前のボスの子供はみんな……とか、聞いたことありません?」 「いや、俺頭よくないから」 「最初から本能にプログラムされてるんです。もちろん、特定の状況でしか発動しないように、コントロールされてるわけですけど。そのコントロールがはずれるのが、ユーイング変異。因果関係を証明するのが難しいけど、ここ五、六年で殺人事件が世界的に急増したでしょう? その犯人の多くが、ユーイング変異が発現したユーイング症患者、って、そういう噂です」 「いやでも、そんなの聞いたことないし」 「テレビとかマスメディアでは扱わないですね。社会的な影響が大きいからでしょうね。でも、海外のニュースサイトでは、だいぶ前から言われてることです」  シャレにならない怖い話を、ずいぶん楽しそうに彼女は語ったのだった。俺は顔から血の気がひくのを感じていた。普段は存在したことさえ忘れている、父のことを思い出していたのだ。
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