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 染色体検査の結果は、来週わかると言われた。授業のある日よりも少し早い時刻に家に帰り着いた。四階建て、階段なし、築三十年のボロアパートの最上階。  母さんはすでに出勤していた。  国道沿いの大きな居酒屋で、遅ければ午前三時時近くまで皿を洗っていた。二年前までは水商売をしていた。俺が登校するころには疲れきって熟睡しているのは変わらない。母さんと向かい合って食卓に座ることは、もう長い間していなかった。  夕食のおかずが、ラップをかけて台所に置かれていた。メモがそえられていた。病気のことを心配していた。その紙を裏返して、検査待ちで、詳細はまだわからない、と書いた。きっと心配いらない、と書き添えた。父が目の症状で困っていたかなんて、訊けるわけがない。  ラップのかかった皿をレンジに入れ、味噌汁の入った鍋を、火にかけた。  ユーイング変異。  ふと思い出して、スマホで検索した。ウィキペディアに、ちゃんと記事があった。脳生理学とか、神経心理学とか、専門的な記述が多く、よくわからなかった。 『ユーイング症患者は攻撃性が異常に増大し、理性を完全に失うものと想像される。意識や自我をつかさどる領域が破壊されるのとひきかえに、野生動物並みに強靭な身体機能を与えられる。ユーイング変異の保持者は、独特の色覚異常などによって比較的容易に識別できるが、変異の発現のきっかけ、前駆症状、発現のメカニズム等については未だ十分な研究がなされていない』  主に子供が攻撃の対象となること、子供が近くにいなければ、自分に近い遺伝子を持つもの(そんなもの、どうやって識別するのだろう)、それもいなければ手当たりしだい誰にでも襲い掛かること、などという話も、ソースがない、なんて疑問が添えられながらも、述べられていた。  彼女が言った、共食いの遺伝子、なんて表現は見られなかった。殺人事件の増加との関連も、断定的なことは書いていなかった。 「そんなこと、ありえない」  ブラウザを閉じながら、独りつぶやいた。もっと調べれば詳細な具体例が見つかるかもしれなかった。それが父の事件と似ていたなら、あるいは、今の自分の症状と似ていたなら、何ができるだろう。  何も、できはしない。  だから、考えたって仕方ないのだ。    変な女だった。そう思う。  少し、怖かった。  俺を知っているといっていた。嘘かもしれない。目も見えないのに、どうしてこちらが誰だかわかるだろう。だが俺も、彼女を知っているような気がしたのだ。  秋空の高いところを吹きぬける風のような、澄んだ、透明な声をしていた。よく動くつやつやとした唇が、鮮明に脳裏に浮かぶ。あの包帯の下には、どんな眼が隠れているのだろう。  それを見ることができれば、思い出せる気がした。    食事を済ませ、食器を洗い、しばらく、ぼんやりとテレビを見ていた。パトカーのサイレンが遠くから近づいてくる。だんだん大きくなって、大きいまま止まった。すぐ近くだ。  好奇心から、部屋を出た。危険かもしれないとは思わなかった。表通りに向かって歩いた。ぱん、と花火を上げるような音が響いた。  表通り。人々が青ざめた表情で走っていた。走ってくる方向を見ると、道路が赤く染まっていた。倒れている人の姿が見えた。警官の後姿。三つ、四つ、連続して花火の音。  獣の吼えるような声が響いた。犬なんかではない。激怒した、巨大な肉食獣に似つかわしい声。さらに花火、いや、銃声だ。  ゆっくりと後ずさり、きびすを返した。急ぎ足で、家に帰った。  嫌な汗で、シャツが濡れていた。風呂に入った。救急車の音が近づいてきて、長いこと止まって、やがて遠ざかっていった。湯船に浸かり、天上を見上げていた。また、父のことを思い出した。嫌な日だと思った。引っ越す前のことが、つぎつぎと頭に浮かんだ。  そういえば、二階の教室から落ちたことがあったな。  別に、いじめで落とされたわけではない。自分から飛び降りたのだ。  なんだっけ。  どうして、そんなことをしたんだっけ。    半ば眠りかけていたような意識を、小さな電流のようなものが走りぬけた。 「ああ、あの女、あのときの……」  声に出して、呟いていた。 
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