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 ……びしゃ……びしゃ。  濡れたモップが、リノリウムの床の上を行き来していた。汚れはほとんどふき取られていたが、モップの後ろに赤いリボンのような筋がいくつも引きずられていた。拭き残しなのか、天上の蛍光管の端からも、ときおり赤い滴が落ちた。清掃員が、四角いバケツにモップを浸した。錆のような匂い。  浅黒い顔をした警官が、メモをとりながら医師と話していた。待合室には押し殺した囁き声が、霧のようにたちこめていた。 ――高枝切りバサミに電子辞書がついて、なんと、お値段そのまま、お値段そのままです!   テレビから流れる甲高い男の声が、待合室のひそやかなざわめきや足音と混ざり合っていた。  自動販売機のそばの椅子で彼女は、美味そうにココアを飲んでいた。車椅子ではなかった。白い杖が、椅子にたてかけてあった。 「こんにちは」  近づいていくと、こちらが声をかけるまえに、彼女がそう言った。 「何があったんだ」 「さあ。私は何も見てないから」  と言って、ニヤリと笑った。 「思い出してくれた?」 「ああ」 「そう、よかった」  いつのことか、精確にはわからなかった。父の事件の後、引っ越すよりも前だ。クラスに、分厚いレンズのメガネをかけた、おとなしい女がいた。ひどい近眼だった。だんだん目が悪くなる病気だと、みんな助けてあげるようにと、担任から言われていた。もちろん、子供にそんな話をするのは逆効果だ。いたずらをされても声を荒げて怒ることもできないような奴だったから、いい的だった。俺の斜め前が彼女の席だった。給食のあと、昼休みが終わろうとする頃、誰かにけしかけられたのだろう、独りならおどおどしてろくに喋れもしないチビが、彼女のメガネをとりあげ、窓から放りなげた。わあっと、五、六人の男子が歓声を上げた。女子たちがクスクス笑いながら遠巻きに見ていた。彼女は一度立ち上がったが、自分では回収できない場所にメガネが捨てられたことを理解したのだろう、席についてうつむいて、ただ膝の上で拳を握り締めていた。  ムカついた。調子にのったチビ、それをやらせた奴、遠巻きに笑っている奴、何も出来ない彼女、そして自分自身。   担任が教室に入ってきた。何かが起こったことは理解したのだろう。だが、何も言わなかった。何もしようとしなかった。始業のチャイムが鳴った。何も気づかなかったような顔をして、その青白い肌をした若い男は授業を始めようとした。 「ああ、そうかよ」  誰にともなくそう言って、立ち上がって、担任がとがめるのを無視して、窓の桟に足をかけた。そんなふうにしなければならない合理的な理由は、今考えてみれば何もなかった。  怒りのはけ口を求めたのか、無言の抗議だったのか、ただ自分を傷つけたかったのか、今考えたって理由なんかわからない。見下ろして、メガネの位置を確認して、その上に落下したりはしないだろうとそれだけを見定めて、跳んだ。    落ちたのは植え込みの上だったから、大きな怪我にはならなかった。左足に少しヒビが入っただけだ。だが、保健室に運ばれ、そのあとすぐに(救急車ではなく)擁護教諭の車で病院に運ばれ、母さんが病院にとんできた。とりみだした母さんが、顔をぐしゃぐしゃにして泣いた。父が死んだときも、あの町を出るときも、泣き顔なんか見せたことのない母さんが。
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