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それからしばらくして、俺と母さんはこの町に引っ越してきた。だから、彼女のその後のことは何も知らない。近隣で、高価な設備のある大きな病院はここしかないから、彼女がここへ手術を受けにきたのは自然なことだった。
「でも、なんで俺だとわかった?」
コーラを買って、彼女の隣に座って、俺はたずねた。あの、口角をきゅっと上げる笑顔で、彼女は言った。
「足音がね、ズッ・タン、ズッ・タン、って」
「なるほど、まったくわからん」
「ちょっと片足を引きずってるでしょう、ほんの少しだけれど、私にはわかるの。私、あの頃から、だんだん目が悪くなってくのがわかっていたから、いずれ見えなくなるのもわかっていたから、憶えておこうと思ったの。はじめて私をたすけてくれた人の足音」
「別にたすけてない」
不覚にも赤面した。彼女にそれが見えなくてよかったと思った。
「君、性格変わったよな」
「そんなこといって、君は私のことそんなに知らないでしょう」
「いや、ま、そうだけど」
「でも、確かに変わったわ。誰かさんがたすけてくれた日から、私、変われるって、思えるようになったの」
むせた。コーラが喉に入った。首から上が火がついたように熱くなった。
「目、見えるようになるといいな」
ちょっとしわがれた声で、俺は言った。
「うーん、私は別に、それはどっちでもいいんだけど」
「え?」
「お母さんがね、喜ぶから。なんか、おかしいんだけどね、自分に責任があるみたいに気にしてるから、見えるようになったら楽になるのかなって」
「そうか」
「でも、君の顔は、見たいかな」
「よせ、あんま、からかうな」
「ごめんなさい。面白くって、つい」
えへへ、と彼女は笑って、ココアを飲み干した。ベコッ、という音をたてて、彼女の手の中で缶がつぶれた。
「こんな世界、見えなくったって少しもかまわない。そのつもりで生きてきたんだもの。この世の全ての人が、明日突然死んでしまったとしても、私、きっと泣いたりしないと思う。私のなかで大切なものは、ほんの少し」
「それ、中ニ病入ってるぞ」
「そうだね」
そう言った彼女の笑顔から、何かがすうっと抜けていった。笑顔は笑顔のままだ。だが、活き活きとした、どこに跳んで行くか分からない弾むような何かが、消えてしまったのだ。
「あら、お友達?」
女の人の声が、背後から響いた。小太りの少し背の低い、穏やかそうな女の人だった。
「お母さん、この人――」
彼女が俺の名前を言った。
それでその人はすべて了解したみたいに、嬉しそうに俺に微笑みかけた。娘がお世話になっておりますといって、深々と頭を下げた。
「いや、お世話とか、俺、何もしてないですから」
狼狽して立ち上がった。くくっ、と彼女が笑った。
病院の廊下の床に血をまきちらし、しぶきを天井にまで跳ね上げた何かのことは、そのとき、すっかり忘れていた。
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