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 医者に、検査結果を見せられた。もちろん、何がなんだかわからなかった。ユーイング変異、とは言われなかった。今すぐ重大な問題が起きることはない、そう言われた。 「これは、統計であって、機序がわかっているわけではないんだけど、障害が見られるようになるとしたら、十八歳を過ぎてからなんだ。それも、百パーセントというわけではない」 「具体的には、何が起こるんです」 「不特定の対象へ――特に子供に対して、といわれてるんだけど、これも統計でしかない――暴力を振るいたくなったり、それを自分自身でコントロールすることが難しくなったり、といったことだよ。正直、これについてはあまり研究が進んでいない状態でね、無責任な憶測はネットにあふれてるけど、医者として責任をもって、こうだ、と言えることはあまりないんだ」  医者の言葉は曖昧だったが、喋り方そのものは立て板に水の滑らかさだった。これまでに何度も、同じことを話してきたように思えた。 「研究が進んでいないのは、その対象がみんな殺されてしまうからですか」  医者は目を丸くし、口をへの字に曲げ、肩をすくめた。 「話せることはみんな話したよ。これ以上知りたければ、ネットや本で調べて、自分で真偽を判断してもらうほかない。目のことなら、生活に支障がでるような状態にはならないと思う。もし、今出てる以上の症状が現れるようになったら、それはまた別な原因だろうね、あらためて眼科を受診してくれればいい。そんなことよりも――」  カルテに何かを書き込みながら、医者は気の無い調子で言った。 「身の回りに常に注意を怠らないことだ。原因がなんであれ、日本も、他のどの国も、ここ十数年でひどく危険な状態になっている。遺伝子異常を気にするよりも、事件に巻き込まれることを心配したほうがいい」 「それも、統計ですか」 「そうだ。等比級数的って言葉、今でも学校で教えてるのかな」 「いや、わかんないです」 「要するに、反比例のグラフだ」 「俺、頭悪いんで」 「最初はゆっくりとした下り坂、だんだん傾斜も加速も増して、最後は誰にも止められない勢いで真っ逆さまって意味さ。このまま行けば、必ずそうなる」  難しいことを言われてもわからなかった。医者は鉛筆を投げ出し、帰っていいよ、と言った。救急車のサイレンの音が、遠くから近づいていた。  家に帰ると、母さんが赤ん坊を抱いていた。たぶん、ニ、三ヶ月前に産まれた、叔母さんの子だ。 「どうしたの」 「今朝、由美ちゃんのだんなさんがね、交通事故って」  眠っている赤ん坊の顔を覗き込みながら、機嫌のよさそうな声で母さんが言う。後ろの車に追突されたという。通勤ラッシュ時のことだから、それほどの速度は出ていなかった。ただ、後ろの車のドライバーは、正気を失ったような様子で大声をあげ、車をそのままにして、怪我をしているはずの身体で、どこかに歩いていってしまったという。  きっと、ユーイング症だと思った。そばに子供がいたら、殺していたのだろう。今頃はどこかで警官に撃たれて、死体になっているのではないか。 「叔父さんは、どれくらいの怪我?」  そんな思いはおくびにもださず、俺は尋ねた。 「二週間だって」 「まさか、その間ずっと預かるつもり?」 「私はそれでもいいって言ったんだけどね、今日明日だけって。ちょっとガッカリ」  母さんは微笑んで肩をすくめる。  父が死んだとき、母さんは妊娠していた。産まれていれば俺の妹になるはずだったが、母さんは堕ろすことを選んだ。姪を抱いている母さんは、楽しそうだった。 「仕事は、大丈夫なの?」 「ほら、ニュースで、もうすぐ夜間外出禁止になるって言ってるじゃない? じっさい、駅前も物騒になってるから、あんまりお客さん来ないのね。休んでもぜんぜん平気って、言われちゃった」  そして笑顔のままで、でも真剣な目で、 「あんたも気をつけなさいよ」  と言った。つっ、と手を伸ばして、俺の腕をつかんだ。昔はきれいで滑らかだった指。今は夜毎の皿洗いでシワだらけだ。 「わかってるよ」  自分が死ぬことに関しては、あまり想像力が働かなかった。ただ、もしそうなったら、きっと母さんは泣くだろうと思った。  ふと、彼女のことに、連想が跳んだ。  明日世界が滅んでも――  彼女は泣かないと言ったけれど、でもきっと、彼女が死んだら悲しむ人は、ちゃんといるんじゃないだろうか。 「風呂、わいてる?」 「あ、ごめん、忘れてた」 「ま、いいや、とりあえず、シャワーあびてくる」 「晩御飯、何がいい? 久しぶりに、母さん頑張っちゃうよ」 「え? ああ――じゃあ、カツカレーとか」 「お、いいねえ。まかしとけ!」     熱いお湯のシャワーを、頭からかぶる。ざあっ、という音に包まれながら、水や電気もそのうち止まるかもしれないと、ふと思った。毎日いたるところで、ユーイング症患者が人を襲っている。発電所だって、海の上のタンカーでだって、それは起こるだろう。  治療法はないのだろうか? ない、と彼女は言った。病気ではないから、と。  じゃあ、どうなるんだ。ユーイング変異を持った子供が産まれる率は、毎年上がっているという。人口に占める変異者の割合は、今年の日本で、六十九パーセント、単純計算なら十一年後に、その数値は八十パーセントに達するという。  明日世界が終わるとしても――  彼女の言葉を思い出す。あれは、ただの言葉遊びではなかったのだと気づいた。彼女の目には、こういうことすべてが見えていたのだと思った。  自分には難しくてわからない。ただ、大切な人を、守れるだけ守って、できるだけ一緒に生き延びたい。いつか、世界がもとどおりになる日まで。  そのときは、そう思っていた。
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