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 シャワーを止めた。  まるで子供が水遊びでもしているような、湿った音が聞こえた。  シャワーヘッドを見たが、水滴は落ちていなかった。音はリビングのほうから響いていた。みだらな忍び笑いのような、不快で、不安を誘う音。 「母さん」  バスタオルで頭を拭きながら、リビングをのぞいた。  姿が見えなかった。  キッチンに顔を向けた。  鍋が吹きこぼれていた。まな板の上に、切りかけのたまねぎと包丁がのっていた。火を止め、 「母さん?」  もう一度リビングを見た。床が濡れていた。逆光の中、ソファのりんかくが歪んだ、そんな気がした。   そこからはソファの背面しか見えなかったが、背もたれの上に、背中が見え隠れしていた。  一歩、リビングに向かい踏み出した。  血の匂いに鼻面を打たれた。 「母さ……  ソファにうずくまっていた何かが、だしぬけに身を起こした。  真っ赤だった。頭からペンキをかぶったみたいに赤いもので濡れた顔の真ん中で、目だけが白く光っていた。がばと身を起こした勢いで滴が飛び散って、びしゃっ、と天井に赤いしみをつくった。  口が動いていた。車のライトみたいな、ギラギラしているけれど感情の無い目でこちらをじっと見つめながら、口元だけがずっと動いていた。くちゃくちゃ、という音。喉が、何かを飲み込む動きをした。  シューッ、と、蒸気が漏れるような音を、その顔が発した。  生き物を目前にしている、とは感じられなかった。暴走した機械を見ているようだった。火花を散らしながら、緩んだ台座の上で足踏みするように揺れながら、ガッシュン、ガッシュンと音を立てながら、自分自身を破壊するほどの力で、同じ動作を際限なく繰り返すプレス機のような。  そして、数秒のにらみ合いの後で、何もかもが一斉に動いた。  「それ」が背もたれを蹴って跳んだ。ソファが倒れ、その上の赤ん坊が血を撒き散らしながら宙に浮かんだ。俺は足を滑らせ、思わず声を上げながら仰向けに倒れこんで、レンジ下の収納扉に後頭部をぶつけた。生臭い風が、ぶん、と一瞬前に俺の首があった場所をかすめた。かぎ爪をたてた「それ」の、右腕の一閃だった。たまねぎがまな板の上から転げ落ち、包丁が床に突き立った。ボウリングの玉のようなものが、赤いものを撒き散らしながら落ちてきて転がった。姪の頭だった。  再び、「それ」が跳んだ。げしゃ、とシンク下の扉がひしゃげた。うめき声を上げながら「それ」は、扉に食い込んだ頭を引き抜いた。真っ赤な顔がこちらを向く。十センチも離れていない。  ギイイイィ。  甲高い、金属のこすれるような声を立てていた。生臭い息が顔にかかった。まん丸に見開いた目の中心にあるのは、アルビノめいた赤い虹彩だった。瞳孔は、針で突いたように小さかった。  だが、それでも、認めないわけにはいかなかった。  それは、母さんの顔だった。  母さんが大きく口を開いた。喉もとに噛み付こうとするみたいに、首を伸ばしてきた。とっさに腕を伸ばしその頬を横に押しやってかわした。  肩に手が伸び、爪が食い込んできた。  激痛だった。人間にこんな力が出せるとは思えなかった。もぎはなそうと前腕を掴むと、顎を全開にして首を伸ばしてきた。蹴った。考えがあったわけではなかった。無茶苦茶に振り回した脚が、たまたま巧くあたった。母さんは、ダイニングテーブルにぶつかって転がったが、すぐに立ち上がってきた。こっちは、持久走でもしてるみたいに息があがっていた。三十秒も経たない間に、考えられないほど疲労していた。  立たなければ、逃げなければ。そう思って手をついたとき、前腕に鋭い痛みが疾った。  包丁。  論理だてて考えたわけではなかった。考える余裕があったらそんなことはしなかった。俺はとっさにその柄を握った。真っ赤な影が、風をまいて跳びかかってきた。刃は鈍い衝撃を突きぬけ、内部の何かを破壊しつつ、柔らかいもののなかに突き刺さっていった。血が、驚愕するほど熱い血が、間欠泉のように噴き出してきて、俺の手を腕を胸を顔を、赤く染めていった。  イイイィ。  母さんが金切り声をあげた。俺は包丁から手を放し、キッチンにすがりつくようにして立ち上がった。刃物は胸のまんなかに刺さっていた。  ざばざばと、信じられないほどの量の血を、バケツをひっくり返したみたいに撒き散らしながら、胸からナイフを生やしたまま、母さんは四つんばいの状態で、それでもまだ、目だけをぎらぎらと光らせて、こっちを見ていた。  玄関まで走った。転げるようにドアから出て、扉を閉めようとして、どん、という衝撃に弾き飛ばされた。ドアの外はアパートの各戸をつなぐ通路で、胸ほどの高さの壁が続いていて、その向こうは空だ。胸壁の角に背中を強打したが、痛がっている余裕はなかった。母さんが跳びかかってきた。喉もとにくらいついてくる、その両腕を掴んで必死に押しとどめた。だが、母さんは上半身の身動きを封じられた体勢で力任せにのしかかってきた。  血を流しすぎたのか、先ほどまでの力はなかったが、押し返すことなどできなかった。胸壁に押し付けられ、その角が背中に食い込んできた。逆向きに押し曲げられた背骨が悲鳴をあげていた。母さんは、ほとんど真上から俺の胸に覆いかぶさっていた。  真っ赤な頭部。ぬめぬめと光る、生乾きの血でまだらに染まった髪。その向こうに空、昼間の月、その、血走った眼球のような赤――  瞬間、今の自分がどういう体勢にあるのか、月から見下ろすように、俺は理解した。どうすればこの状態から抜け出せるのか、思考ではなく、閃光のような直感によって、俺は悟った。  母さんの上腕を押さえていた両手を離し、胸壁の角を掴み、逆上がりの要領で床を蹴り、振り上げた脚で母さんの身体を捉え――  世界が反転した。  母さんの姿が消えた。  落ちていったのだ。アパートの四階の胸壁を越えて、地上に。  自分も一緒に落ちてもかまわない気持ちでいたが、身体は本能的にバランスをとって、通路にもどっていた。溺れかけた人みたいな呼吸をしていた。ずっと、息ができなかったのだ。背骨が激痛を訴えていた。心臓が、爆発するような勢いで拍動していた。引き絞られた視界は真っ赤に染まって、鼓動にあわせて脈打っていた。トマトをつぶしたような湿った音が、ずっと下のほうで響いた。  俺は、殺した。  そう思った。月が見えたあの一瞬、俺は何もかも理解していた。自分がそれをやることで、母さんを殺すことになる、それも、はっきりとわかっていた。  事故ではなかった。未必の故意とかでもなかった。殺す方法を思いつき、ためらわずに実行した。  俺は、母さんを殺した。
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