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8
ガラスが砕け散って、金属がひしゃげる音がした。いろんなものが吹き飛ばされて散乱した。粘りつくようなガソリンの臭気がたちのぼって、やがて、炎がそこにあるすべてを舐めはじめた。
目の前で、コンビニに車が突っ込んだのだった。
どうして自分が路上にいるのか、どうやってそこまで歩いてきたのか、思い出せなかった。真っ赤に塗りつぶされていた視界が、ゆっくりともとに戻っていくのを、ぼんやりとながめているだけだった。
悲鳴や、怒号や、人間離れしたユーイング症患者の雄たけびが、あちこちから聞こえてきた。だが、目に見える世界は奇妙に動きもなく、路上に車さえなく、西に傾きだした太陽の手前を、ゆっくりと夏めいた雲が流れていくだけだった。
行く手に、病院が見えた。
ああ、彼女に会いたかったのだな、と他人事のように思い出した。
彼女を守らなければ、なんて立派な考えがあったわけではなかった。ただ会いたかったのだ。ただその声を聞きたかったのだ。
きっと、慰められたかったのだろう。
歩いていくと、黒く乾きかけた血溜りの中に人が倒れていた。警官だな、と思った。制服は破れ血に染まり、破れ目から赤や白の筋繊維やさらにその奥の骨までがさらされ、首がちぎれかけていた。かじりとられたように顔の肉が半分なくなっていて、半ば開いた口からはぞろりと歯がむき出しになっていた。
手に、拳銃を握っていた。
「ごめんなさい」
と俺はささやいて、その銃をとりあげた。警官の手はしっかりそれを握っていたから、指を折らなければならなかった。指は乾いた小枝のように簡単に破壊された。
血で粘つく拳銃を、何も考えずに自分のシャツで拭いた。リボルヴァー、というのだろう。それぐらいしか銃のことは知らなかった。ハンマーを起こすと、重たい音をたてて弾倉が回った。弾丸が四発以上入っていることは確認できた。引き金に触らないように注意しながら、尻のポケットに差し込んだ。役にたつ気はしなかったが、ホルスターに入ったままの警棒ももらった。
頭痛を感じた。視界の端全体が、赤く脈打っていた。
目を閉じると、白い包帯を巻いた小さな顔が微笑んでいた。彼女を確実に守ってくれるような、当てにできる大人は、もうどこにもいない。世界はそんなふうに変わってしまった。
どん、と爆発音のようなものが響き、東のほうに黒い煙が、奇妙にゆっくりと立ちのぼった。
「病院に行かなきゃ」
声に出して、そう呟いた。
――バックミラーに取り付けるだけのお手軽さの、多機能ドライブレコーダー、さあ、驚きのお値段です!
ひっそりとした待合室に、テレビの声だけが響いていた。少し混乱した。テレビの中の世界が、あまりにもいつもどおりだったからだ。もしかしたら本州では、あるいは、この町の外では、こんなことは起こってはいないのだろうか。だとしたら、いつか自衛隊か何かが、救出に来てくれるのだろうか、そう思ったのだ。
――そして、それだけではないんです、このドライブレコーダーに、なんとあの高枝切り鋏みが、お値段そのままでついてくるんです! 今回かぎりの特典ですよ!
待合室に横たわっているのは、死体、死体、死体だ。
もっと早い時間に怪我をした人たちが搬送されて、十分な処置を受けられないままに命を落としていったのだろう。床に敷かれたマットの上にびっしりと遺体が横たわっていた。まだかろうじて息のある者、苦しげなうめき声を上げている者、死んでいるのか疲れて倒れこんでしまったのか、医師や看護士の姿も混じっていた。
入院患者の病室のある棟へつながる廊下は、防火扉が閉ざされていた。扉にもたれかかった男の看護士が、うつろな目で俺の動きを追っていた。何故その扉を閉めたのか、その向こうで何が起きたのか、聞いてみる気にはなれなかった。
待合室の死者や死にかけている人々の間を歩き回った。どれだけ探しても彼女の姿は見つからなかった。防火扉のこちら側には、6つの診察室と処置室、各種の診察室や検査室などがある。
そこで見つからなければ、扉の向こう側だ。
そっちに踏み込んで彼女の救出を果たすのは難しいと思った。開けてみなければわからないが、十中八九、そこにはユーイング症患者がいるはずだった。銃を持った警官が何人も殺されているのだ。そういう相手が、どれだけ閉じ込められているかわからな――
出し抜けに足首を掴まれた。
大声を上げながらバランスを崩し、尻もちをついた状態で、なかなか抜けない銃を抜こうとしてパニックに陥りかけた。
「……おねが……ろして」
処置を受けられないまま横たえられていた重傷者の一人だった。破れたシャツの間から、横腹の皮膚と筋肉が引き裂かれているのが見えた。あざやかなピンク色の内臓が力なくうごめくのが見えた。その周囲の床はべたつく生乾きの血で塗りつぶされていた。
彼女ではなかった。
背の高い、大人の女の人だった。
「すごく……痛い……ろして、……どうせ……ない」
俺はようやく銃を抜き、抜いてしまってから、何をするつもりか、と自問した。
銃を見て、女の人の目がうなづいたようだった。小さく微笑んだようにすら見えた。
「やめてくれよ、できないよ、俺にそんなこと」
その目が俺を離さなかった。足首にかかった指のかすかな力も、俺に行くことを許さなかった。
目をつぶった。涙が出そうになった。
女の人の傍らに膝をつき、照準した。
女の人は安心したように目を閉じた。
心臓が跳ね上がるような銃声が響いた。女の人は死んだ。こらえきれなくなって、俺は泣いた。
――畜生、なんなんだよこれ、何でこんな……
いつか、彼女の名前をつぶやいていた。何度も繰り返すうちに、叫び声になった。
そして、扉が開いた。どこか、そう遠くないところで。
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