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どのくらい時間がたったのか、鳥人がゆっくりと女から離れる。女はぐったりと俯いてはいたものの、先ほどのような衝動的に暴れる様子はなくなっていた。鎮静剤でも打たれたのか。六番は、落ち着いて呼吸をする彼女を見、困惑しつつも、害された様子のなさにやや安心した口調で、おい、何をしたんだ、あれは大丈夫なのか、と顔覆いをしていない男に問うた。
「大丈夫ですよ。―――ほら、目隠しを外してやりなさい」
男は、柵のあちら側の職員にほがらかに命じた。鳥人は、ますますげっそりとし、肩で息をしている。
あっけにとられた様子だった職員たちは、男の声ではっと覚醒し、慌てて女の目元を覆っている遮蔽帯を解いた。あらわになったその顔を落ち着いてよく見れば、先ほど男が言ったように、耳元から首筋にかけてにまだ新しいやけどのあとが赤黒く残っている。やけどをしていないほうには、片目を覆うように包帯が巻かれている。復帰次第、四番は絶対に絶対に殺してやる。六番は怒りで顔が熱くなるのを感じた。割れた額の傷から、またたらりと真新しい血が落ちた。
―――ここは?
うまく声が出せないのか、ヒューヒューと息の漏れるような音混じりで、彼女は何かを言った。
―――声が出ない。
状況をのみこめない様子で、彼女は自身の手を動かしたり、きょろきょろと辺りを伺う。そして、目の前に立つ鳥人を見て、目を丸くした。
―――翼の人だ……。
六番は、再び彼女の名前を呼んだ。その声はやはり聞こえてはいなかったが、彼女は六番のほうを見た。痣と、切り傷と、やけどのあと、血の気の失せて青ざめた貌の、ガラス玉のような眼が六番を確りと捉えた。
だが、彼女は困惑したように、ついとその視線を外した。六番は、その仕草に困惑する。
「可哀想に、混乱しているようだから、早く医務室へ連れていってあげなさい」
そして、なぜここにいるのかを、自分が何者であるのかを、説明してあげなさい。六番は、男の言葉を理解できないといった様子で眉を顰めた。
「自分が何者であるかを?」
六番はおうむ返しに男に問うた。
それと誰か、六番の手当てをしてやりなさい、と男は問いを黙殺してはぐらかすように言う。
「自傷行為なんてだめですよ。あなたの体は、あなたのものではないんですから」
そこの娘が、あなたのものではないのと同じように。
男は明るい声で言った。手袋をした職員が六番の額をぬぐい、傷の具合を確かめる。ざっくりと裂けてはいるが、所詮自傷行為、たいした傷ではない。六番は首を振ってその手を払いのけた。
「なんで、あれは、俺のことがわからないんだ」
六番は男の言葉を無視して、再度問うた。男は変わらぬ明るい声で答えた。
「あの娘にはもう、大方の記憶がありません」
六番の額から、また一筋血が流れる。
生きていくための、体が覚えているような記憶は残っているでしょうけれど、自分が何者で、これまで誰とどのように生きてきて、何に傷つき、何を幸せに思ってきたか、その殆どの記憶を消してしまったんですよ、いま、その鳥人が。
「むろん、あなたのことも。六番」
六番は、目線だけを動かして、女の姿を見た。女は、職員が自身の拘束具を解いていく様をじっと見ている。その横顔の、とろんとした眼の、これまで見たことのない無防備さに、まるですっかり別人のような穏やかさに、体が芯から冷え冷えとするのを感じた。
「嘘だ……」そんなことができるはずがない。許されるはずがない。
「嘘かどうかは、六番、治療を受けてみればわかりますよ。大丈夫。消えてしまうのは記憶だけで、あなたの人格も、あの娘の人格も、決して壊れません。巻き戻るだけ。さあ」
男は崩れるように膝をついた六番の肩にやさしく手をそえ、反対側の腕で鳥人を指差した。嫌ですか? では、あの娘に忘れられたまま生きますか? 男はしらじらしく尋ねる。
「もしかして、夢を見てしまいましたか? 人殺しの職務から逃れて、この国を去って、まるで普通の人間のように生きていきたいと思ってしまいましたか? あの娘を連れて逃げられると思ってしまいましたか?」
「でも、残念ですけれど、あなたは、そういうふうには作られていないのですよ」
男は、変わらずゆったりとした口調で続ける。
「そういうふうには、作っていないのですよ、私は。可哀想ですけれど」
六番は漸く、なぜこの施設に既視感があったのか、自分がなぜ人殺しになる前の記憶を失っているのか、この男が何者なのかを悟った。そして、全てを悟ったところで、もはや何もかもが遅かった。柵のあちら側から、鳥人が腕を伸ばして手招きをしている。
作ってはいない、と男は言った。自分は、この男に作られたのだ。こういうふうに、作られたのだった。そして自分は、二度目なのだ。この「治療」を受けるのは。
鳥人は、一滴また一滴と、泥水のような涙を瞳に溜めてはこぼし、溜めてはこぼししている。女が不思議そうにそれを眺める。吸い込まれるように、六番はふらふらと鳥人の前まで進み、まるで神さまにそうするように、目を伏せて、頭を差し出す。鳥人の濁った瞳に六番の俯いた顔が写る。額から垂れた血が一筋頰を伝い、まるでどす黒い涙を流しているように見える。
六番の両頬を、鳥人の乾いた手のひらが包んだ。熱い熱い手のひらだった。期待をして夢を見てしまったことも、愛せるのではないかと思ってしまったことも、その後悔も痛みも、あらゆる苦悩もひといきに蒸発させる灼熱が、彼を燃やし尽くすように包んだ。
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