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通された部屋は床も天井も壁も真っ白で、中央に据えられた頑丈そうな鉄の柵が異様なほど黒く、視界に刺さる。煉獄に待合室があるならこんな部屋だろうと思った。柵のあちら側に椅子が据えられていた。"対象者"はゆっくりと柵に近づいた。柵のあちら側に、鳥人は腰掛けていた。
殆どの王国市民は、鳥人の姿を見たことがない。対象者もまた同様だった。
肩から膝ほどまである大きな羽が、背中の後ろで丁寧に重ねられ、やわらかそうな羽先が床につくやつかずや、呼吸に合わせてかすかに揺れている。
その目はしっかりと遮蔽帯で覆われ、頭全体と耳にも真っ白の布が巻かれて、壁のほうを向かされている。長い髪をターバン状の布の中に収めているのであろう、横むきの後頭部が妙に長く伸び、それがますますそれを人間離れして見せた。
腰かけた椅子の足もとに、数片の羽毛が落ちている。ここまで厳重に拘束された鳥人は、しかし椅子の上で微動だにせず、唯一その表情を伺うことのできる口元は、引き結ぶでも微笑むでもなくゆるく閉じられていた。その警備の厳重さに見合わず、文字通り羽根のように気配は軽かった。
対象者をここに通した職員たちは、一様に見たことのない顔覆いを身につけ、体を硬くしている。余程この鳥人を恐れているようだ。対象者はうすぼんやりともやのかかったような頭で、自身の置かれている状況を考えている。
◇
「負傷した際に、脳にもダメージを受けているようだ」
医師に、至急特別な治療が必要だと言われ、この研究所まで移送されてきたのだった。初めて来る場所だったが、足を踏み入れるなり、初めて来たとは思えない不思議な感覚を覚えた。顔覆いをしている周囲の職員たちは皆、半分人間ではないような、例えば誰かの操る式神のようなものに見えた。
「さあ、治療を始めましょう」
職員たちのなかで唯一、顔覆いを着けていない男が、ゆったりと声をかけた。それを合図にして、柵のあちら側にいる職員たちは椅子に腰かけたまま微動だにしない鳥人の目の遮蔽帯と頭を覆う布をしずしずと外していく。その手は震えている。まるで、一片でも吸い込めば死ぬ毒物でも扱っているみたいだ、と対象者は思った。職員が退くと、鳥人はゆっくりと立ち上がって、柵のほうへ歩を進める。よく見ると、鳥人が身につけているマントは両腕のところに裾から長い切れ込みが入り、そこから拘束帯を外されたと思しき痩せ細った腕がほんの少し覗いている。
「六番、もっと近く寄って構いませんよ」
顔覆いをつけていない男が、変わらずゆったりとした口調で対象者に声をかける。あれは危険なものではありません。
「一般の職員たちは、あなたのような特別な訓練も投薬も受けていませんから、鳥人のそばに寄るだけで怯えてしまうのです。あれはあんなに大人しいのに」
対象者は、誘われるようにふらふらと柵に近寄っていった。鳥人は椅子から立ち上がり、黒鉄の柵の隙間から腕を伸ばして対象者に触ろうとしている。骨の浮いた、ろうのように不透明な膚をしている。対象者はぞわぞわとした不快感を覚えながらも、抗い難くそれに触れた。それはかさかさと乾いて、しばらく陽に曝したように熱かった。
「六番、もっと、顔を寄せて」
顔覆いをつけていない男の声だ。言われるがまま、対象者は柵に顔を寄せ、鳥人の顔を正面から見つめた。鳥人は変わらず、こちらを覗き込んでいる。瞳は濁って、辛うじて濡れてはいるものの白目と瞳とのさかいめがぼやけて滲んでいる。そんな眼の中央が対象者を捉え、誰もがぴくりとも動けないまま、息をのむ。
しばらくその姿勢のまま見つめ合い、ふいに鳥人が目を逸らした。そして首を振った。鳥人は対象者に背を向けると、数歩後ろの椅子に戻って腰かける。一切の動作に音がなかった。ふむ、と顔覆いをつけていない男の考え込むような嘆息が真っ白の部屋にぽわんと膨らんで散った。
「仕方ない、人払いをしましょう」
男が言うと、柵のあちら側に待機していた職員たちがいそいそと部屋を出ていく。そうか、まだ、人がたくさん部屋のなかにいたのか。と、対象者は思った。今の今まで、まるで意識が狭窄して、二人きりになっていたように感じていた。
「六番、腕を出しなさい」
対象者は不思議と、この男には抗えないと分かっている。差し出された腕をとり、顔覆いを身に着けた職員が対象者の腕に注射針を刺した。――対象者には、痛覚が殆どない。
「さて、」
顔覆いをしていない男は、柵の向こう側で椅子に腰かけている鳥人に声をかける。
「私たちは外に出ます。あとはよろしくお願いしますね」
そして、「いいですか。壊してはいけませんよ」と言った。対象者は、自分に向けられたものだと思った。
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