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◇
対象者、"六番"と呼ばれるその男は、最近仕事で大きな失態をおかしていた。六番が失敗するのは初めてのことだった。
六番らの仕事は、王国政府に都合の悪い人間や組織を襲って、対象を秘密裡に殺すことだ。軍隊とも法律とも一線を画した極秘の部隊。彼はその中でも、特別腕利きの人殺しだ。六番という名前は、ざっと数百名いる人を殺す専門の職員のうち、特別腕利きの、上からだいたい六番目という意味の名前だった。
そんな六番が初めて殺し損ね、あまつさえ自身に傷を負って帰還した。六番が所属する人殺したちの部隊―――名前はないが、便宜上、「処刑隊」と呼ばれている―――において、これは実に大きな事件であった。幸いにして、ともに任務にあたっていた四番が六番の分も働いたため、外向きには懲罰はなく、不問となっている。
だが殺害対象に片耳が削げ落ちるほどの反撃を受けた六番は、外傷が完治したあと、懲罰を受けない代わりにこうして、「治療」と称した妖しげなカウンセリングを受けることになってしまった。ここに来るまでに聞かされた話では、鳥人と話すことで緊張が解れ、負傷した脳神経の自己治癒が進むのだとか、なんとか。
「痛くはなかったのですか」
黙って六番のそんな話を聞いていた鳥人は、話の切れ目にゆったりと尋ねた。片耳を落とされて、痛くなかったですか。六番は柵の前にあぐらをかいて、柵の向こう側の鳥人を見遣った。
「俺は、殆ど痛覚がないのだそうだ」
「だからわずかも痛くなかったし、正直なところどうでもいいと思っている」
「痛みは、死を回避するための最後の警告だと言われているが、その仕組みがない俺は、もしやと気づいたときにはもう死んでいるんだろうな」
「死ぬときに初めて、自分は死ぬのだと気づくんだろうな」
六番は、自分でも驚くほどに、ずいぶんと饒舌に話した。一方で半分眠っているのかと思うくらい、まぶたが重い。さっきの注射は、鎮静剤の追加投与だったのだろうか、と回らない頭で考えた。
でもできれば、寒くないところで死にたい、と六番は付け加えた。寒いところは、好きではない。うとうとと、夢見心地のまま、六番は喋っている。たぶん俺は暖かいところで生まれたんだろうから。
「あなたが生まれたところはどんなところでしたか」
鳥人は、痛みがないとか、死ぬとか、六番の口からこぼれた物騒な言葉を拾うことなく、質問を次いだ。例えば、西だとか東だとか、砂漠だとか島だとか。鳥人の声は、歌のように心地よい。
「俺は、人殺しになる前のことは何も覚えていない」
六番は応えた。
「今の職に就く前、従軍していたときに、大きな怪我をして、記憶をまるごと失くしてしまった」
「だから、故郷のことも、肉親のことも、何も覚えていない。俺は、どうやって人を殺すのかしか、それしか知らない、――知らなかった」
「――今は、殺したくないと思うことがある」
なぜこんなことを見知らぬ異形のものに話しているのか、自分のことながら分からなくて笑ってしまいそうだった。
故郷のことなど、もう長いこと考えたこともなかった。つい最近、お喋りな部屋付きの召使いが知りたいとせがむので、そこで初めて、自分は故郷どころか、従軍時代のことも覚えていないことに気づいたのだった。奇しくも、鳥人の質問はあの部屋付きの質問に重なった。
「でもまた脳みそに怪我をしてしまったから、色んなことを忘れてしまうんだろうか」
声に出すつもりはなかったのに、喉からつるりとこぼれ出る。
「恐ろしいとか、痛いとか、考えたこともなかったけれど、最近はたまに思うことがある。傷をつければ痛いだろう、とか。だから殺せないと思った」
六番は、自身を負傷させた殺害対象のことを思い浮かべる。部屋付きの召使と似た年恰好の小柄な女だった。可哀想だと思ってしまったから、殺せなかったのだ。鳥人はゆっくりとまばたきをする。鳥人のまばたき一回ごとに、六番は自分のまぶたも重くなるように感じる。
「なんで、失敗してしまったんでしょうね。あなたは、一度も失敗したことがなかったのに」
鳥人は、不思議そうにつぶやいた。
事前に聞いていた話と違ったのだ。若い女だとは知らなかった。それで、驚いてしまった。それだけ。六番は、それ以上喋る気にはなれなかった。結局、四番が俺の代わりに殺したんだから、同じだ。
◇
そこまで喋って、対象者はかくんと落ちた。大丈夫ですか。声をかけるが、返事はない。眠っているようだった。鳥人はしばらくは困ったように様子を見ていたが、結局部屋のすみまで歩いて行き、壁に据え付けられたベルを鳴らした。
二人が黙ってしまうと、真っ白なこの部屋は、ぴんと張りつめた沈黙に覆われた。鳥人は、身じろぎもせず、部屋のすみから全体を見渡した。窓もない部屋、柵のあちらとこちらに一つずつ据えられた白塗りの鉄扉。黒々とした鉄柵が、視界を均等に裂いている。柵のあちら側で、うなじを晒して項垂れるように眠る対象者の姿が見えている。鳥人は、対象者の丸く硬い骨が確りと守る内側のものについて考えた。ほどなくして、鉄扉がガアンと音をたてて開き、職員たちが入ってくる。
「鎮静剤、多かったですかねえ」
顔覆いをつけていない男が、独り言のように言った。どうも雑に扱ってしまって、いけませんね。
「うまくいかなかったんですね」
そして鳥人ほうを向き直り、かすかに首をかしげて言った。鳥人は目を伏せる。
「仕方ない。明日もお願いできますね?」
鳥人は頷いたが、男はすでにそれを見ておらず、柵の向こう側で頭を垂れる対象者を覗き込んでいた。男は、鳥人はいいえと答えることができないことを知っていた。
「さあ、“戻し”て。」
断ち切るように、男はそう指示する。顔覆いをつけた職員たちが鳥人の両腕を拘束してマントの下の戻し、目に遮蔽帯を被せ、長い髪を結わえて布を巻き、耳を覆った。そして鳥人は、職員に誘導されるまま、鉄扉の先のほの暗い廊下に消えていった。
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