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◇
六番が目を覚ましたとき、寝台の脇には白い衣服の職員がなにがしかの書き物をしながら立っていた。
職員は目を覚ました六番の姿に一瞬怯えるような顔を見せ、ちょっとお待ちくださいね、と言って部屋を出ていった。先ほどの真っ白な部屋に似たような、無機質な壁の部屋だ。この壁の白から、じわじわと思考を奪う不思議な毒が染みだしているみたいだ。六番は思った。
「鎮静剤が効きすぎてしまったようで。いかがですか? 特段変わりありませんか?」
しばらくして、くだんの顔覆いをしていなかった男が現れた。今は誰も顔覆いをしていないから、それは特徴ではないのだが。
改めて観察すると、小柄な体に子どものような顔がのっかって、物腰柔らかを装った口調がしらじらしく、その立ち振る舞いは尊大だ。
「あれは本当に、治療なのか」と、六番は訊く。我ながら呂律が回っていないように思う。まだ、完全に薬が抜けていないのだ。
「あれに、何の意味があるんだ。」
いやにお喋りになってしまった自分を恥じるように、誤魔化すように六番は苛立った声で続けて問う。治療ですよ、と男は答えた。あなたは耳を落とされたとき、衝撃で脳に損傷を受けた、だから治療が必要です。そうご説明したはずですが。男は、そそこでいったん、言葉を切った。そして、たっぷり溜めて続ける。――いいですか? あなたは、ご自分のお立場を理解されていますか? 処刑隊が、失敗の許されない身分であることを、ご存じですよね? 次第に男は尊大さを隠すのをやめ、横になっている六番の頭の横に立った。
「仕事で失態を犯したんですから、本来であれば、さっさと処分されても仕方がないんですよ」
煽るように、嘲るように、男は首を傾いで六番を覗き込んだ。口調とは裏腹に、その表情はちらりとも変わらない。今は顔覆いを、してはいないがこの男の顔は、まるで死体から剥がして張り付けたみたいだ。まるで生気がない。顔覆いをしているも同然だ。
「ですがあなたはきっともとに戻れます。特別ですからね。きちんと治療を受けて、はやく復帰しましょうね」
男は、微笑んでそう言った。
◇
翌日も、六番は鎮静剤を打たれて真っ白の部屋に通された。
予め拘束具や遮蔽帯を外された鳥人が、向こう側の部屋の真ん中にしんと座っていた。昨日よりも幾分鎮静剤の量が減らされたのか、やや覚醒した頭で六番は、向こう側の鳥人を観察した。
年齢は、ほとんど自分と同じくらいに見えた。ただ、その顔もまた腕の膚と同様かさかさと乾き、夜の砂のように青みを帯びて硬くなっている。こうして見るとまるですっかり冷え切っているように見えるが、きっと触れれば熱いのだ。
「万一ですが、六番、あなたが治療を放棄して逃げてしまっては困りますから、拘束帯をつけますね」
顔覆いをつけていない男は、職員に命じて六番の両腕を拘束しながら、ほがらかに言った。ここの職員では、軍人のあなたを力で引き留めることはできませんから、容赦してくださいね。そう言いくるめられ、六番は、三日目から鳥人の「治療」の前に拘束具を着けられるようになった。早くこの「治療」を終えたい六番は、特段抵抗することなく受け入れた。
受け入れはしたが、「治療」は思うように進んでいるとは思えなかった。進展が見られないまま、数日が過ぎていく。
ここに来て、もう十日になる。水以外のものを与えられていない。毎朝、鎮静剤と栄養剤を点滴されている。こんなところにいて、体が鈍ってしまったら、それこそ復帰できなくなるな、とぼんやりと思っている。使い物にならなくなったら、俺はどうなるんだろう。
「使い物にならなくなる?」
「前のように人を殺すことができなくなったら、俺はどうなるんだろうな」
処分されるんだろうか。六番はぽつりと呟いた。
「処分されるのは、嫌ですか」
六番は応えなかった。
◇
その日、先に六番を個室に帰したあと、顔覆いをつけていない男はひとり真っ白の部屋に残り、項垂れる鳥人に尋ねた。苛立ちを察して、鳥人の膚が粟立つ。併せて、羽がぶわっと膨らんだ。怯えに呼応するように、羽毛が舞った。
「ずいぶん、時間がかかっているようだけれど、」
もしかして、お前はもう力を使い果たしてしまった? もうお前はその特別な力を振るうことはできなくなってしまいましたか? 鳥人は、男の言葉を遮って応じた。
「そうではありません」
「あの人間の中には、少しも絶望がない。ひとかけらも」
鳥人は、ほんのわずかに語気を強めた。あの人間はこのまま処分されることになっても平気だと思っている、なぜならきっと逃げおおせると思っている、微塵も諦めていないし、微塵も悲しんでいないし、つまり微塵も、
「不幸ではない」
鳥人は絞り出すように言った。かなりの疲労が溜まっているように見えた。
「不幸せでない人の記憶を消すことはできない」鳥人は、そのまま黙った。
正確には違う。男は考える。
あれに消せるのは、不幸せな人の記憶ではなく、あれが心の底から憐れに思った人間の記憶だ。どんなに不幸せな身の上でも、鳥人がそれに同情しなければやりようがない。あの鳥人はだいぶ消耗してきた。瞳もかなり濁ってきたし、あと数回ぶんしか使えないかもしれない。同情心も、精神の消耗に応じて鈍っていくのかしら。男は床に落ちている鳥人の羽を一枚ずつ拾う。人格を壊さずに、記憶だけ消してしまえる便利な機能だったのだけれど。
「その希望を、砕いてあげるしかないんでしょうか」男はひとりごちた。
翌日、六番はくだんの部屋に連れ出されなかった。
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