運命の人

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そして、待ちに待った一週間後の日曜日。 絵梨は、露出の少ない淡い赤のロングワンピースを選んだ。 アガサ・クリスティーの文庫と言えば、赤色だ。 少し派手だったかな、と心配しながら喫茶店に向かう。 砂漠の雪、というレトロな看板が見えた。 よく昔、父に連れてきてもらったなあ、と絵梨は懐かしくなった。 そこでも父は一杯の珈琲を片手にカバーがついた文庫本を読んでいるだけで、会話らしい会話はなかったけれど。 店の棚は国内外のミステリー本で埋め尽くされていて、それを眺めているだけでも楽しかったっけ。 からん、と店のドアに付いた鐘を鳴らして、中に入った。 少し薄暗い店内は、ゆったりとした時間が流れている。 「いらっしゃい」 マスターがコナン・ドイルの本を片手に、ぼそりと言う。 この独特な雰囲気が、絵梨は少し苦手でもあった。 ミステリーファンの常連客以外お断り、みたいな。 だから、大きくなってから何度も店の前を通ったが、一人で入る事が出来なかった。 でも、今日は、一人じゃないから。 絵梨の胸が高鳴る。 もう来てるだろうか、私の運命の人。 絵梨は机の端を見ながら、奥へ進む。 あった。 一番奥の机の端に、見覚えのある文庫本。 『終りなき夜に生れつく』。 そして少し離れた所に、水の入ったコップが置かれていた。 氷は少し溶けかかっていて、待たせてしまったのかな、と思う。 こちらに背を向けて座るその人を、絵梨は観察した。 やっぱり黒髪ロングの男性! 背中から文学青年の香りがぷんぷんする。 でもちょっと猫背。 あれ? なんか何処かで、見覚えのあるような……? よし、と絵梨はごくりと唾を呑んだ。 「ぽあろ、さん?」 裏返りそうになる声を何とか抑えて、絵梨は声をかけた。 ぴくり、と男性の肩が揺れ、ゆっくりとこちらを向いた。 目が合った瞬間、お互い固まる。 ――父だった。 からん、とコップの氷が鳴る。 恋が終わる音がした。
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