遠い彼方の花まで

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誰にも言えない秘密がある。 別にたいそうな秘密というわけではない。大きな借金をしているとか、ストーカーされているとかではなく、同時に左目に魔力を秘めているとかそういうファンタジーなたぐいの話でもない。 秘密とはごくごく日常に点在する物事に対するものだ。その瞬間さえ切り取ってしまえば大したことはない。しかし、その秘密はときにボタンをかけちがえた白いシャツのように不格好にずれ、ひずみが生まれる。 そのいびつさは他者からは好奇となる。異物となる。だから、私はそれを隠し通す必要があった。それが社会で生きていくために必要であったから。他人から興味のない他人と思われるためにも、その必要があった。私は世界に対して何かを隠し続けている罪悪感を抱えつつ、世界の中に飲み込まれるしかなかった。そんなことを20年近く、なかば世界に強要されるかのように日々を暮らしている。しかし、その生活にも私は耐えきれなくなってしまった。 この世界から、消えてしまいたいな。 そう思ったのはここ数日前のことである。 きっかけは大したことではない。私の勤めている中小企業の上長との面談のときに「結婚はしないの?」という言葉を口にされた。するつもりはもちろんない。それを言われたことにかんしてはぶっちゃけどうでもいい。 中年で二人の子供を持つ母でもある上長は私を無神経に追求してきた。彼氏はいないの?20代後半だから、そろそろ考えどきよね。自分のキャリアもこれから考えなくちゃいけないよね。大丈夫、うちの会社は産休育休きっちり取れるからさ。気長に考えなよ。 そこに私という人格は存在しなかった。別に上長が旧い考えの人間だとか、この際どうでもいい。ただ、私という性別を、もとより私という人格を言葉のうしろでストレートに無自覚に否定してきた。上長は気さくな人だ。悩み事も相談に乗ってくれるし、妙にウェットなところはあるし、愛嬌があって憎めない。そんな彼女からそういう言葉が吐かせた、この世界が嫌だった。 いや、それよりもそんな世界をいつまでたっても気にしている自分が、なによりも一番嫌いだった。 その日は途中で具合が悪くなり、帰宅した。帰っても気分が晴れることはなく、そのまま2日くらい会社を休んだ。 カーテンを締め切った仄暗い部屋の片隅で、いろいろな思考が頭を渦巻く。なぜ人の気もしれないで結婚なんて言えるのか。得体が知れない人間と一つ屋根の部屋で寝食をともにし、気まぐれで性行為を求められ、子供を作り、みんなで家族円満です、だなんて。吐き気がする。 それが普通なのか。じゃあ私は普通じゃあないな。異常だ。少なくともこの社会においては、私の存在は異物でしかない。 私は徐ろにノートPCを立ち上げ、インターネットの検索ブラウザにこう打ち込んだ。 「自殺 方法」 大体の死に方はろくでもない。実現性のあるものを冷静に探していく。ドアノブ首吊り、痛いし事故物件にするのは忍びないから却下。オーバードーズ、そもそもいっきに100も1000も睡眠薬を飲めるかって話。却下。練炭自殺、死ぬ前に通報されそうだから却下。 目に止まったのは飛び降り自殺だった。人目のつかない高い場所から、気絶しながら生命活動を失う。なんだか楽そうだ。私、高いところは平気だし。 次に私は検索窓に続けて打ち込んだ。 「飛び降り 名所」 せめていつも誰かが死んでいるような場所で迷惑をかけず死にたいな、と思ったのは自分なりの配慮である。 ただそういう場所はだいたい遠いところにある。めんどうだな……と思った矢先、同じ県の湖畔にある崖が目についた。ちょっと頑張って行けばいけない距離でもないし、なによりあまり人が近寄らないような場所であることを私は知っている。ここしかないな、と思った。 そうと決まれば準備は始まった。せめて一張羅を着ていこう、と思い近くのデパートで私の好きなメーカーのワンピースを買った。普段はワンピースなんて着ないのに、一度は着てみたいなと思ってしまった。ガラにもなく売り子のお姉さんに「私が着て似合いそうなワンピースはありませんか」と聞き、出されてきた襟付きの水色のワンピースを選んだ。私が着て似合うな、と思ったので間違いはないだろう。 そのあと下着を買った。派手ではないけど、フリルの付いた白い上下セットのもの。素直にかわいいな、とおもったので買った。普段はそこまで気にしないけれど、せめて最後くらいと思って、直感で決めた。 最後に赤いローファーを買った。自殺するのに赤い靴は相場のようなものである。当日はバイクで行くのに、とも思ったが、別に死ぬのだから問題はないだろう。片道さえ行ければなんとかなる。 デパートに行くなんて長いあいだ縁がないことのように思えた。買い物袋を下げながら出口へ向かっていくあいだ、きらびやかな格好をしている女性の数々とすれ違った。この人たちは私みたいな後ろ向きな理由じゃなくて、もっと前向きな気持ちで買い物を楽しんでいるのだろう。ある人々は友達や恋人とお話をしながらこれがいい、あれがいいなんて検討を膨らませている。ある人々はこれがいいけどこれも……なんてつぶやきながら試着室と売り場を往復している。みな、これから身につけるなにかに思いを馳せながら買い物をしているのだろう。うらやましいとはぜんぜん思わない。ただ、彼女らはまばゆいくらいに生の活力にあふれていた。同時に、彼女たちのことを私は理解できなかった。それがなんであるかはなんとなく理解できているつもりだ。 デパートから出ると、ぶわっ、と強い風が私を煽った。細く長いポニーテールが流される。なにかに引っ張られるような心地がして、嫌な気持ちになった。 私はこの世界にとらわれるのが嫌になっていた。 美容室で髪の毛をざっくり切ろう。とふと思いついた。 切られる、という行為がずっと苦手で、就職活動を終えてからは髪はできるだけ切らないようにしていた。ただ、そこにある長い髪はストレスになっていた。 もっと身軽で、するりと抜け落ちてしまいそうな存在になりたかった。 デパートと家の中間くらいの駅前に私の行きつけの美容室がある。流行りの美容室という感じでもないが、こじんまりとおさまりがよい場所の美容室だ。 木製でできたドアを開くと、からんころんと素朴なドアベルの音が心地よく響く。 「こんにちはぁ。あれぇ、香西さんじゃないですかぁ。今日予約してましたっけ?」 私の担当の美容師が都合よく飛んできた。 「ごめんなさい、今日は飛び込みなんだけど、大丈夫?」 「いいですよぉ。ちょうどお客さんが少ない日で、暇してたんですよぉ」 美容師はそう言うと、私をいつもの窓際の席へ通す。鏡の前へ座り、美容師にいつもと違うオーダーを出す。 「ありがとう。今日は髪を短く切ってほしいの。肩にかからないくらいで。スタイリングは任せるわ」 「了解です!香西さんにしてはめずらしいですねぇ。いったんボブカット目に揃えてみますねぇ」 私の担当の軽薄な美容師のお姉さんが、私の髪を解くように触りながら、鈴の音のような透き通った声で問いかけてくる。するり、するりと髪の毛に触れる感覚があり、気がつくとその感覚は切り落とされていく。この美容師は切断するという行為をなにかを愛撫するような、それでいて名残を感じさせない手付きで進める。 「……あのぅ、ちょっと変な話なんですけど……失恋でもしたんですかぁ?せっかく伸ばしてたのに」 「別にそういうのじゃないよ。ただ邪魔だなって思っただけ。深いい意味に捉えなくてもいいわ」 髪を切るということ自体にはそれ以上も以下も理由はない。なにかの邪魔になるから切る。それだけのことのはずなのに、人間は過剰に意味を持たせたがる。 「そうですかぁ……まぁそういうときもありますよね!わたしもいまは伸ばしてますけど、ばっさりすっきりしたいなぁ、ってときもありますし……別に失恋とか理由があって切るだけじゃ、ないですもんね」 美容師はそう言いながらどこか柔らかい言葉で話す。 「そうよ、なんとなく、ね」 私の色素の薄い髪がぱさっ、ぱさっ、と床に落ちていく。いままで切られることが不快でしかなかったが、どこか神聖で愛おしいもののように感じた。 いま私の髪を切っている美容師は、私が上京してからかれこれ9年近く私の髪の毛を整えてくれている。最初に来たときは新人だったからか、無骨な手付きで私を苛つかせていた。 今となっては赤子をいたわるような丁寧なカットさばきと、人ごとに顔そのものにアクセントをもたらす、独特なスタイリングが好評のようだ。いまでは美容室のエースだそうな。 私もこの美容師のことは気に入っている。パーソナリティとかそういう話は知らないが、人当たりがよく、すこし頭が抜けているゆるい感じで話を入れてくるのがちょうどいい。あと、どこか懐かしい顔つきをしているのが好きだ。ゆるく内側に巻いた亜麻色のセミロングヘアは確かに目立つが、透き通った桃色の頬が映える。おそらくチークなども入れていないと思う。その頬の色はどこか垢抜けないようでいて、見とれてしまうくらいきれいで目立っている。それを邪魔しない薄味のメイクと小さい唇、そしてリスのようにくるりと丸くて大きな眼が彼女を幼く、懐かしく映えさせている。 別に顔だけで指名しているわけではない。その美容室は指定がない限りは一番最初の担当がその人の担当となる。例に漏れず、私の予約にはすべて彼女が入った。最初こそ成り行きだったが、私の髪を切り続けた甲斐もあってか、私の髪については私より熟知している。もちろん、私が髪を切られることが苦手なことも肌で理解しているだろう。だからか、慎重に手櫛をしながら、時間をかけて切ってくれるようになった。今となっては私にも指名を変える理由はない。 その美容師はハサミを帰る所作の途中でガラス張りの窓越しに外を眺める。 「今日はお天気雨がふるって、天気予報のお姉さんが言ってたんですよねぇ。お出かけとかされます?」 「ええ、ちょっとしたピクニックに行こうと思っていて」 「ありゃま、それならせめて日中は晴れててほしいですけどねぇ」 「いや、わたし雨に濡れるの好きだから。そこは別に構わないわ」 「お客さんって変わってますよねぇ。そういうとこ、私好きですよ」 美容師は苦笑しながら髪を撫でるかのように、丁寧に梳きバサミを通していく。この美容師のこういうところは少し苦手だ。人のことを軽々しく好きだ、とかかわいい、だとか褒める。客商売をしている相手にそんなことを言われても、正直反応に困るのだ。 「ありがと」 わたしは苦し紛れに好意を受け取るふりをした。頭の中に靄がかかったような気持ちになる。私が気を使っているみたいで、気が引けてしまった。 私は無言になる。美容師はそれを意に介さないように、真剣な顔で淡々と髪を梳いていく。 髪を切り終わり、シャンプーをし、気がついた頃には見たこともない私が、鏡の中から私を覗きこんでいた。頭頂から首筋近くまで緩やかな放物線を描くように切りそろえられていた。 「どうです?香西さんの首筋がきれいだから、隠すか隠さないかくらいにしてみましたぁ!エロス?っていうんですか、こういうの?」 ドライヤーで髪を優しく梳かしながら、美容師がスタイリングの感想を求めてくる。口から出る言葉は相変わらず無粋であるが、なぜか笑えてきてしまった。 少し首を左右に倒しながら髪型を確認する。ショートとまではいかないボブくらいの髪型で、美容師の言ったとおり、首筋が見えるか見えないかくらいに梳かれている。エロスと言えるかは自分ではわからないが、血色が薄い首筋の色が妙に目を引く。 べつにそこはどうでもいいが、全体的なディティールは概ね違和感がなくまとまっている。引っかかりがなく、優しい丸みを帯びた髪型だった。 「いいわ。気に入った。ありがとうね」 「そう言ってもらえると嬉しいですぅ〜。あ、そういえばなんですけど、わたしついに独立することになって!これ、名刺なんで持っていってください!」 ドライヤーが終わり、私が立ち上がると、美容師は「MarcoPolo」と新しい店の名前が書かれた名刺を渡してきた。軽く目を通すと、ここから電車二駅くらい違う場所に出店することがわかった。いまと比べると、私の家により近づいた場所にある。 「そうなの。開店祝いに行くわね」 「ありがとうございますぅ!……あのぅ、ちょっと変な話してもいいですかぁ?」 美容師は上目遣いをしながら会話のトーンを少し下げる。 「?どうしたの」 「香西さん、今日いらっしゃったときからずぅっと険しい顔をされていて、なにかあったのかなって……なんか気に障ること、しちゃいました?」 なるほど、外から見ると今日一日私はそういう顔をしていたのか、と一人で勝手に納得した。そりゃあそうだ。これから消えるんだもの。この世界から。 「いや、なんでもない。ちょっと頭が痛いだけよ」 「そうですかぁ……お大事にしてくださいね。あっ、ここだけの話、名刺の裏に私のLINE書いてあるんで、よかったら愚痴でもなんでも聞きますよ?」 「ええ、心配かけて悪いわね。ありがとう」 じくり、と私のどこかが痛みを覚えた。 じくり。じくり。 会計がおわり、毎度ありがとうございましたぁ、またよろしくおねがいしまぁす、と営業スマイルな美容師の声を聞いたあともそれは続いた。 もらった名刺の裏側を確認すると、ご丁寧にボールペンでIDと「ごはんでも行きましょう!もっとお話がしたいです……!」という直筆のメッセージが添えられていた。 じくり。じくり。じくり。 私はめまいのような、痛みのような、そんな錯覚を覚えた。 具合が悪くなって、名刺を破り、近くのコンビニのゴミ箱へそれを投げ棄てた。
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