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髪を切り終えたあと自宅に戻り、身支度を整える。
仄暗い部屋の中、シャワーを浴び、買ってきた服に着替える。自分で言うのもなんだが、われながら様になっていると思う。ボブカットとの兼ね合わせもうまくクリアしている。
遺書でも書こうかと思ったが、書く宛がないのでやめた。
両親も長らく連絡はつけていないし、私一人が消えたところで悲しむような連中でもない。
赤い艶がかったローファーを履き、携帯電話と小銭、それとタバコ一箱だけをワンピースのポケットに突っ込んで、バイクが止めてある駐輪場へ赴く。
今日は天気は良かったが、地平線の上では鈍色の雲が沈着しているのが見えた。美容師が言っていたお天気雨というのもあながち間違いではないだろう。
バイクカバーを外し、フックにかけてあった水色のストリートジェットヘルメットをかぶる。髪が短く、軽くなったからか普段よりも収まりがよい。
キーを開け、愛車のCBX400Fのランプが灯る。
エンジンを掛けて左ハンドルのクラッチを握り、ギアをキックしクラッチを開けていくと、CBX400Fはそれに答えるかのようにブルン、と轟音を鳴らしながら前進を始める。道路へ出てギアを二速、三速、四速と上げていくと、轟音を鳴らしながらグイグイと速度が上がっていく。ずいぶんまえになくなった祖父から受け継いだものだが、年代物の割によく走るので気に入っている。
行き先は体が覚えていた。市街地の国道を北上していき、県道の少し細めの道路へ乗り換えていく。あたりはコンクリートの建造物から、田舎のロードサイドのチェーン店へと変貌をとげていく。バタバタとワンピースがなびくのがわかる。買っておいていうのもなんだが、やはりスカートだと走りづらさはある。私をその場所に留めさせるかのような抵抗感は少し感じられた。ただ、別に気に留めるほどの抵抗感でもなかった。疲労感も運転を阻害するほどのものでもない。公道では少し速い80キロ位の速度で飛ばしていく。どうせ田舎の国道なので、ネズミ取りも多くはない。トラックが行き交う道をひたすらに、無心に飛ばしていく。
ロードサイドのチェーン店も徐々に姿を消し、民家がまばらな田園へと移ろってゆく。道行く自動車の数が減り、人の息遣いが減り、バイクの轟音に紛れてサラサラ、ザラザラと草木がなびく音だけが聞こえるようになってきた。静寂さと、自分の体内にあるものとは似ても似つかない自然の息遣いが私を少しずつ浸していく。
悪くないな。
風と体が溶け込んでいくように錯覚する。私には確固たる生を断つ場所が確かに顕然しつつあった。しかし、その場所まではまだ遠い。
じくり。じくり。
また身体の何処かがひりついている。振り払いたくても振り払えなかったそのひりつくような感覚は、私のすべてを蝕むように広がっていくのがわかる。
ふとした瞬間にハンドルを取られかけるも、そのたびに風を感じて正気に戻る。まるであの世とこの世を行き来しているような感覚に襲われる。その正体が何なのかは私もわからなかった。
じくり。じくり。
田園すらも姿を消し、あたりは草木と森林が生い茂る田舎道へと変わっていく。そこは私の見知った道だった。街頭もまばらで、日が沈んでいないのに人一人いない。道もどんどんアップダウンが激しくなってくる。もう峠をふたつほど越えた。つづら折りの坂をフットブレーキを駆使しつつ、速度を維持したまま確かに駆け上っていく。あたりは夕日が沈みかけ、深く藍がかった闇が覆ってきている。
つづら折りの坂を登りきると、大きな湖が姿を現す。その湖のほとりにある小さな集落。そこが私の故郷だ。祖父に預けられ、青春時代の半分をここで暮らした。同時に、ここは自殺の名所が存在していた。
その場所は「向かいの崖」と私たちは呼んでいた。
実際に現場に立ち会ったこともなければ、死んだ人の身体を見たこともない。ただ、この地域に知らない車が訪れ、そのまま見かけなくなるなんてことはザラにあったし、救急車やパトカーが朝夜問わず行き来することも珍しくなかった。
学校ではいのちの授業がたびたび開かれた。人は追い詰めると死に至るんだよ、それは残念ながら現代社会では時々起こってしまうことなんだよ、それで悲しむ人は大勢いるんだよ、だから周りと自分に優しい人間でいようね、なんて趣旨の催しだ。
私は実感がなかった。人の、それも他人の生死なんて知るよしもなかった。でも、自ら命を失う人は絶え間なかった。多くの人があっけなく、この地で生を断っていった。そこに暮らしている誰の実感もなく、自然に帰るかのように、ひっそりと。
私もきっと、その中のひとりとなるのだ。今の自分はこの世界が受け入れてくれる人間ではない。その事実は自分が生を断つのに十分すぎる理由だった。世界が受け入れないからこそ、実感なく自然に帰るかのように生を断とうとしている。私はその理由が何となくわかってしまった気がした。だからこそ、その地へ進もうとしているのだろう。
深い森の中にある少し開けた湖畔にバイクを止める。燃料はほぼ底をついていた。近くにガソリンスタンドもない。下山はできないだろう。それでいい。
ふと湖を眺める。ある一人の少女の顔が脳裏をよぎった。
それは分校の同級生だった女の子だ。名前はゆり、と私は呼んでいた。その少女とよくここへ来ていたのを思い出す。
夏は水をそのまま飲めるくらい澄んだ川で遊んだり、カブトムシをとったり、冬は祖父と三人で焚き火をして夜空を眺めながら昔話をしていた。
少女は明るく、元気な子だった。いつでも走り回り、昆虫や花を見つけてははしゃぐような無邪気な子だった。
私はその少女の横顔を眺めるのが好きだった。いつでも少し上気して透き通った肌に紅色の血の色をにじませている頬が好きだった。上気して速くなっている呼吸が好きだった。
彼女と出会ったころ、私は余所者だった。ここへ来たのは小学校一年に上がってから。父と母は仕事が多く家に戻らない日が続いたため、祖父が私を一旦引き取ってくれたのだ。
そのころの私は今にして思えば空虚な子供だったと思う。父も母も私の存在はファッションにしか過ぎず、よそでしつけがされている所作ができれば喜ぶような両親だ。それをしないと怒鳴られ、手が出る。だから私はいい子を装うしかなかった。
いい子を演じすぎた代償として、なにかに興味をもつことを諦めてしまった、と今にして思う。
祖父は私のためにいろいろなことを教えてくれた。竹とんぼを作って飛ばしたり、朝顔を育てたり、星座を教えてくれたり。
でも私はそういったことに一切興味が持てなかった。私の中ではそれらはすべてそこにあるものの一つにしか過ぎなかった。そこにあることになんの疑いもなく、それでいてなんの感想も出てこなかった。
私は空っぽの存在でしかなかった。生きる信念もなく、理由もなく、虚空に放たれたシャボン玉のように世界という名の虚空をただよい続けるだけの存在だった。
そんなとき出会ったのが近所に住んでいた少女ーーゆりである。
分校の入学式の時、ゆりは全身をどろんこにして現れた。40代くらいの女性の先生があらあら、どうしたのその格好、とたしなめようとすると、ゆりは、
「魚がな、いっぱい泳いでてな、それを捕まえようとしてたん」
と元気よく答えた。そのあと、ゆりは私のことを指さしてこういった。
「あの子、まつりっていうん!わたしのおむかいさん!」
私はその瞬間、なにがおこったのかわからないほど、ひどく混乱した。私の名前は茉莉花。まつりか、と読む。なにをどうしてそう呼んだのかはわからないが、それからずっとゆりは私のことをまつり、と呼び続けた。
ゆりはいつだって自由だった。小学校低学年の頃はいないと思ったら山で迷子になっていたり、釣り竿を作ってミミズを餌に魚を釣ろうとしていたり、それで泥だらけになって教室に現れるたび、先生が呆れ果てたような表情でたしなめていた。ゆりはでもな、楽しかったん、と決まって言い放ち、上気したピンク色の頬をして、にへーっと笑顔を私に向ける。私はわけがわからなくなり、いつも目線をそらすしかなかった。
一生懸命いい子を演じていた私にとって、ゆりは法外な人間に過ぎた。ただ、ゆりのにへーっとした笑顔がなぜか私の心をくすぐる。
なんだ、なんなんだあの子は。なんで怒られるってわかっているのに、いつもいつも勝手気ままなんだ?
いつのまにか私はゆりの一挙手一投足が気になるようになっていた。見ているだけでいろいろな事がわかる。
生き物はだいたい好きだけど、ダンゴムシとかワラジムシみたいな、足がいっぱいある生き物はあんま好きじゃないみたい。
人参は大好きだけどピーマンとセロリが苦手みたい。好物は牛蒡と人参が入ったきんぴら。
雨の日のあとは生き物が出てくるから登校中にだいたい寄り道をしてからくる。
自分から人のことを触るくせに、先生とか上級生に触られるのが嫌なようだ。
しょんぼりしているときは前髪をいじるくせがある。
算数は苦手だけど、国語と生活は好きだからかかなり得意。意外にも運動神経は皆無のようだ。
自分が感じていることが素直に顔に出る。楽しいことをしたあとはしばらくずっと笑顔でいるし、こっぴどく怒られたときはしょんぼりして、その後はなにも喋らず前髪をいじっている。
ただ翌日には何事もなかったかのように笑顔で登校してくる。
私からゆりに話しかけることはなかった。しかし、私はゆりの姿をずっと捉え続けていた。理由はわからない。でもなぜだかゆりから目を離せなかった。
目を離すのはゆりと目があったとき。その頻度は多かった。
教室に入るとき。先生に怒られているとき。授業で先生から指名されたあと。決まってゆりはピンク色の頬で、にへーっと笑いかける。私はなぜだかどこかむずがゆいような、くすぐったいような衝動に駆られ、いつも目をそらしてしまうのだった。
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