遠い彼方の花まで

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入学して数ヶ月経った。季節は徐々に夏へと変わる兆しを見せ、霧がかった天気の日が続いていた。 その日は風が強く吹いており、今にして思えば小学生が登校するには厳しい天気だったように思える。 私はいつもどおり傘をさして登校した。登校してからはいつもどおり授業を受けていたが、彼女は下校時まで姿を表さなかった。 私は気にもとめず、いつもどおり授業を受けて帰宅しようとした、その矢先だった。 昇降口から出て傘を差そうとした次の瞬間、強い横薙ぎの風が私を襲った。 私の傘は風に吹き飛ばされ、大きな木の高い幹へひしゃげた形で引っかかってしまった。 周りの上級生たちは先に下校してしまったし、先生も見当たらない。 強い風による木々が激しくこすれる音と雨が地面を打ち付ける音からなる、自然からの強い抵抗のような音が私の耳を支配していく。 それは今まで感じたことのない、なにも理解しようとしない私に対しての、強い拒絶のように聞こえた。 心を自分のうちに隠し、そのことすらも自分から忘れようとしていた私にとって、この拒絶はあまりにも理不尽だった。 なんで。どうして。なにかわるいことでもしたの? 私の目から涙が溢れてきた。 それでも私は一人で帰ることしかできなかった。できるだけなにも感じないようにうつむき、ずぶ濡れになりながら帰り道を歩く。ぱしゃぱしゃと自分の髪を濡らすほどの強い雨が降っているのがわかった。 強い雨音が理不尽に私の耳を陵辱し続け、気が狂いそうになった。私はそれに耐え、ただただ歩くことしかできなかった。 息苦しかった。呼吸が荒くなるのがわかる。なにかに溺れそうになっていた。地面は荒れ狂った川のように、茶色く濁った大きな水たまりになっていた。 このまま溺れてしまうのだろうか。私はどうなってしまうのだろうか。頭が考えることを拒絶し、脳が恐怖に染まっていく。 その時、私の耳を陵辱し続けていた雑音を割って、私の脳髄に鈴の音のような声が一直線に響いてきた。 「まつり、どしたん?」 声のする方へ向くと、女の子が突っ立っていた。 黄色いレインコートと赤いゴム長靴は泥が水玉模様を作っていた。両手にはなぜかザリガニがうねうね動いている。 レインコートのフードで顔は隠れていたが、その頬は一度見たら忘れないきれいなピンク色をしている。 その姿は間違いなくゆりであった。 私はゆりをその目で捉えた瞬間、膝から崩れ落ちた。 「わあ、大丈夫?!」 彼女は少し慌てた様子で両手に持っていたザリガニを投げ捨て、ぱしゃぱしゃと駆け足で近づいて来た。 「まつり、泣いてるん?辛いことでもあったん?」 ゆりは力なく垂れた私の両の手をしゃがんで掴む。私の冷え切った手のひらからゆりの体温が伝わってくる。 「私……このままどうなっちゃうの……?傘もとられて、身体も冷たくなっていって、なにも考えられなくなっちゃうの……?」 ゆりはレインコートのフードを外して顔を出す。その顔はいつものように明るすぎる笑顔ではなく、あたたかく心を浸していくような笑顔だった。明るい茶色をした両目は、私の充血した目を正面から捉える。私は吸い込まれるように、そして何かにすがるように自分の目を合わせた。すると、私のどこかが熱くなるような心地がした。恥ずかしいような、くすぐったいような、そんな感情が私の中からあふれるように。 少女はニッコリとほほえみ、濡れた手で私の目を拭った。 「大丈夫だよ。冷たい雨は必ずやむ。なにもこわくない。まつりが元気になるまで、わたしがそばにいてあげるから」 ゆりはその大きな目で私を見つめ、ぎゅーっと両手を握りながら、ゆっくりと話しかける。そのとき、どこかでぴしゃっ、ごごごご、と大きな音が響いた。私はその大きな音に力を奪われるように、ゆりにもたれかかった。 「大丈夫。大丈夫。かみなりなんて怖くないよ。わたしがずっといるから」 ゆりはやさしく私を抱きとめ、背中をポンポンとやさしくたたいた。私は目頭が熱くなり、そのままずっと大声を上げて泣き続けた。 それからどれくらい立っただろう。気がつくと雨の強さはおさまり、あたりも少しづつ明るさを取り戻していた。 しばらくして身体が暖かくなるのを感じた。ゆりの体温を直に感じていたからだろう。それからようやく自分が泣き止んでいることに気がついた。 「ね、もう大丈夫でしょ」 私の身体はゆりの体温に浸され、抜け出せなくなっていた。服ごしに地肌のぬくもりと心臓の鼓動を感じる。 自分以外の存在が私の身体を覆い尽くしていた。よくよく考えてみればそれはいつだってそうだったと思う。私はゆりという存在が、他の自分ではないものとは全く違うものなのだと感じた。 もっと、もっと欲しい。 このあたたかさを私のものにしてしまいたい。 ばしゃん。 私は無意識にゆりを押し倒していた。ゆりと見つめ合う格好となった。ゆりの頬がいつもより紅潮している。 私は自分が何をしたか一瞬わからなくなり、わかった途端に恥ずかしさと気まずさとで血が頭に昇った。 刹那の沈黙が流れたあと、ゆりは口角を上げいたずらっぽく笑う。 「……やったなぁ?」 そう言うや否や、その細い腕をわたしの首にかけ、横に回転するように私を押し倒しかえした。 手提げかばんと自分の背中が泥につくのがわかる。でも不思議と嫌な気持ちはしなかった。私とは全く違う存在が、私を感じている。 「ふふっ、はは、はははは……」 私はおかしくなり、転校してはじめて心の底から笑った。私の心の中のもやのようなものが、明るさですうっと引いていく。 楽しいな。この地に来てはじめての感情だった。 「……まつり、楽しいの?」 ゆりははにかみながらおずおずと聞いてくる。 「うん……楽しいよ」 私は素直に応える。ゆりはなにかを確かめるように、また私に問うてくる。 「わたしといるの、楽しい?」 「楽しい。どろんこになるのって、こんなに楽しいんだね」 「わたしといるの、嫌じゃない?」 「嫌じゃないよ、あたたかくて、気持ちいい」 「……そっかあ、嬉しいな」 ゆりはまたにへーっとした笑顔になった。その笑顔を見ると、私の心臓がびっくりしたようにどくん、どくんと強く脈打つのがわかる。 なんだろう、わからない。でもいやじゃない。あたたかい。 「あした、学校一緒に行こ。学校の近くにな、カエルがいっぱいいるとこがあるん。きっと明日は晴れるから、大きいやつがいっぱい出てくるの。みせたげるね」 「うん、カエルの大きいやつ見てみたい」 「決まりね!今日は帰ろ」 ゆりが立ち上がろうとした刹那、私はとっさにゆりの手を引く。なぜだかはわからない。でもそうしたかったのを抑えきれなかった。 「もうちょっと、このままでいたい」 ゆりはちょっと困ったような笑顔を見せたあと、私の手を引いて立ち上がらせる。 「……まつりったら、あまえんぼさん。手をつないでてあげるから」 まつりはぎゅーっと私の右手をにぎにぎする。 じくり。 なぜか、私の胸の奥が痛んだ。その正体がわからぬまま、他愛のない話をしながら、ゆりの手と体温を感じ続けて祖父の家へ帰った。 その時間はあっというくらいに短く、ずっと終わってほしくない時間だった。 その翌朝、昨日の天気は嘘のような快晴だった。家を出るとゆりが待っていた。ゆりは私の手を取り、学校の近くの広場へ連れていき、カエルを捕まえ始めた。捕まえたカエルは両手のひらにやっと収まるように大きく、目を見開いてぼーっと佇んでいた。カエルになりたいなと思ってしまった。 その翌日は川へ入ってザリガニを捕まえ、そのまた翌日は裏山でカブトムシの幼虫を掘り起こした。 そんなことを毎日のように繰り返していくうちに、私たちはいつしか友達となっていた。一緒になって授業を抜け出して川へ水遊びをしに行ったりもした。服がどろどろになるまで遊んだ。その姿で一緒に教室に戻ると先生が呆れ顔で待っていて、それを見て二人で笑いあった。その姿で帰ってくると祖父は喜んで、私たちに駄菓子をくれた。 「いい友達ができたねえ」 と祖父はいつも笑顔でゆりを見ていた。私は嬉しいような、誇らしいような、それでいて少し後ろめたい気持ちを覚えた。 私たちはいつでも二人で一つの共同体だった。いつだって手をつないで、村の隅々まで探検したり、校庭で鬼ごっこをしたりした。 あの時までは。 小学校六年生の秋。夕方、下校した後にゆりと遊ぶ約束をしていた。私の家で集まって、山で鬼ごっこをしようと約束をした。 しかし、ゆりはいつになっても私の家の前まで姿を表さなかった。いつもかばんを家に置くなりすぐに駆け込んでくるゆりにしては珍しかった。 あたりは徐々に夕日のオレンジ色に染まっていった。 迎えに行こうかと思った矢先、ゆりはチャイムも鳴らさずに泣きじゃくりながら我が家へ飛び込んできた。 「あのね、あのね、人が向かいの崖から飛び降りたん」 私はゆりがなにを言っているか、最初は理解ができなかった。それを一緒に聞いていた祖父は見たこともないような険しい表情をした。 「すぐ戻るから、二人は家で待っていなさい」 と鋭く言うや否や、CBX400Fに飛び乗って見たこともないような速度でバイクを走らせていった。あんな険しい顔をした祖父を見るのは、生まれて初めてだった。 残されたのは私とゆりの二人きりとなった。 〓〓このへん描写増やす〓〓 私はあの日のゆりのように泣き止むまで、ぎこちなく彼女を抱きしめた。 「ゆり、大丈夫。私が泣き止むまでそばにいてあげる」 ゆりは泣き止むことはなかった。静かにゆりは泣いていた。表情を表さず、人形のように力なく、私に抱きとめられたままだった。 ゆりは底抜けに明るく、裏表がない性格であった。楽しいことが笑えば思いっきり笑うし、痛いことや悲しいことがあれば大声で泣く子だった。 あの日のゆりは明らかに私の知らないゆりだった。堰を止めていたなにかが溢れ出すように、静かに、それでいて激しい感情がむきだしになっていた。 私はただ抱きしめることしかできなかった。 違う。しなかった、のだ。 静かに泣く彼女の身体は糸を断たれた操り人形のように脆く、暖かく、柔らかかった。私にされるがまま、なんの抵抗もなく抱き留められていた。そこには彼女の持つしなやかな身体だけがあった。 その姿は私にとってあまりにも哀しく、美しく、官能的だった。彼女の心に染まりたいと強く思った。 じくり。じくり。 私はどこかが痛むような感覚に襲われた。彼女を強く抱きしめる。こんなに近くにいるのに、なぜあなたと一緒になれないの。なぜあなたのことが理解できないの。ごちゃごちゃになった頭の中で、私は静かに頬を濡らした。あたりはオレンジから深い藍色へと移ろっていた。 その後、ゆりはパートから帰ってきた母に連れられて帰宅した。ゆりは最後まで生気が失われていたような表情だった。祖父も何事もなかったかのように帰宅し、なにも言わずに夕食を二人で食べ、私は頭の中が混乱したまま、寝床へついた。 人伝いに聞いたところ、飛び降りた人はすでに息を引き取っていたという。結果的にゆりは人が生を断った瞬間を見たことになる。 〓〓ここまで〓〓 〓〓このへんなんとかしたい〓〓 あの日を境にして、ゆりは変わってしまった。 それまでの天真爛漫さは消え、私のことを避けるようになった。教室に行ってもギリギリに登校して、時間が来るとすぐに帰る。休日も家に引きこもったっきり、出てこなくなってしまった。 何度も話しかけようとしたけれど、話しかける言葉が見当たらなかった。私はそのときゆりの傍にずっといてあげられなかったことを悔やんだ。 それからは毎日が灰色だった。すべてが色彩を失ったかのように沈着した風景のように見えた。窒息するかのように苦しくなり、学校を休もうかとも思った。 それをつなぎとめていたのは彼女自身だった。彼女の表情は静かに感情を表していなかった。上気した桃色の頬は、正気を見せずして美しく彼女を彩っていた。あまりにも美しく、脆かった。 じくり。じくり。 その表情を見るたび、私の感情は不安定になった。そんな顔をしてほしくないのに。笑顔でいてほしいのに。彼女の表情を盗み見ることをやめられなかった。 〓〓ここまで〓〓 そんなある日、家のチャイムが鳴った。祖父が出かけていたので私が出ると、そこにはゆりがいた。 「髪を切らせてほしいの」 そう言って。 私はゆりが会いに来てくれたことに喜び、いいよ、と返事をして洗面所へ向かった。なぜ髪の毛なのか、私にはわからなかった。当時も以前のように髪が長かったので、なんとなくいいかなという気持ちになっていた。 それより一番の気がかりはゆりの表情だった。静かに、なにかを考え込むような表情だった。少し前までカエルがーとかバッタがーとかそんなことをいいながら外ではしゃいでいた彼女ではなくなっていた。 洗面所の鏡に向かって、ゆりは私の髪を切り始めた。ひどく粗野な手付きだった。じゃき、じゃき、と髪の毛を切っていく。毛先は段々のぱっつんに切られていき、私も怪訝に思っていると、ゆりは涙を流しはじめた。 「切れない……うまく切れないよぉ……」 その手は震え、ハサミをかきん、と地面に取り落とした音が聞こえた。 「なんで……なんでなの……」 私は自分の不格好な髪を見た。なんでこんなことをさせているのか。なんでゆりを泣かせることをさせているのか。自分でもわからなくなってしまった。 「……ゆり、もういいよ、おじいちゃんに切ってもらうから。今日は帰って」 私は彼女にそういって振り向いた。彼女は目をはらしながら、床にへたって泣いていた。その姿を捉えた瞬間、私の中で得体の知れない感情が広がっていた。 じくり。じくり。じくり。じくり。 顔に熱が帯びていくのがわかる。 その感情がなんなのか、私は理解できていなかった。 うつくしい。いとおしい。くやしい。かなしい。くるしい。そばにいるのに。 私の直感がこれはいけないことだと叫んでいた。 わからない。なにも理解できない。だめだよ、そんなの。そばにいたいのに。 「……なに?なんなの?」 私はいてもたってもいられず、ぐるぐると渦巻いた私自身が、口からついて転げ出た。 その瞬間、私ははっと我に返った。小さくうずくまったゆりはびっくりした表情でこちらを見ている。 「違う、そうじゃない」 ゆりに言ったんじゃない。私が言うのもつかの間、ゆりは泣きながら駆け足で私の家を去った。 違うの。そうじゃない。私のせいだ。ゆりは悪くない。私がなにも理解できなかっただけなのに。 私はゆりを追うことができず、そのまま膝の力が抜け、崩れ落ちた。 そこからゆりは不登校となり、顔をつき合わすことはなくなってしまった。 なんどもなんどもゆりの家に行ったが、おばさんが「ごめんね、人に会わせられる状態じゃなくって」と言われ、返させられるのがオチだった。 私はあのこぼれ出た一言をただ悔やんだ。気持ちは荒むばかりだった。ゆりがいない世界で私はなにをすればいいのかわからなくなった。 そのころ、私の母が現れた。母は祖父の家に上がるや否や、私にパンフレットを渡してきた。 「来年からはここへ行きなさい。こんな田舎にずっといては社会に出たとき困るもの。あなたの成績なら大丈夫。手続きは済ませたから、新学期になったら山を降りなさい」 そのパンフレットは山を降りた地方都市にある全寮制女子校だった。最初は祖父と母で言い合いをしていたようだが、なかば自棄になっていた私は首肯し、卒業式が終わるとともに山を降りたのだった。 ふと我に返ると、あたりは深い闇に支配されていた。こんなときになんで昔のことを思い出しているんだろう。 私は「向かいの崖」へと歩みを進めた。その場所は祖父から立ち入ってはいけないと言われていたのだが、道は熟知していた。 木々の太い根を乗り越え、ごつごつとした石畳を登っていく。ローファーが邪魔なので、途中で脱いで手に持ったまま登っていく。私が小学生低学年の頃、遊び半分でゆりとそこまで競争していたことがあった。その事件があってからは積極的に行くことはしなかったが、ゆりと会えなくなってから人の目を盗んでは「向かいの崖」へ通っていた。そして私は崖の端へ立ち、崖の下を眺めることをしていた。そこは断崖絶壁であった。崖の下には石畳があり、おだやかな湖面から少し顔をのぞかせていた。水面は風に従うようにゆらゆらと揺れ、漂うように広がっていた。人が生を断つ場所としてはあまりにも穏やかで、力強さと美しさを湛えていたことを覚えている。 息を切らしながら厳しい坂道を登っていく。なにかを脱ぎ捨てるように、もがきながら。吐息が白くなるのを感じる。空気が刃のように私の五感に冷気となって襲う。それでも私は歩みを止めなかった。無心にただ目的に向かって歩くしかなかった。 私は崖へたどり着く。その崖の淵を覗き込むと、あのころと変わらない、穏やかな水面が広がっている。 これからここで死ぬのか。 私はローファーを履き直し、タバコを取り出してその先端に火をつける。月明かりに照らされた仄白い煙は私の周りで渦を巻くように漂う。これが最後の一服だと決めていた。 更待月ーー満月というには不格好に欠けている月が明るく水面に映る。のどかでいて荘厳な景色だった。こんなきれいな場所で人は生を断つのか、と改めて思うくらいに。 草木の茂る音と、梟がどこかで啼いている音以外はなにも聞こえない。そこには静寂のなかでほんの少し、自然の生を感じた。 「くやしいなあ」 私は一人つぶやく。 タバコの火をローファーで火を消したあとで深く深呼吸をする。 これから死ぬんだ。 自分のことなのに実感はない。でも、これから死ぬんだという明確な意志だけがそこにはあった。崖の淵へ歩みを進める。浮遊感と言うか、高揚感と言うか、得体の知れない非現実感がそこにはあった。 「やっぱりここにいたんだ」 自然のささやきを割って、あるはずのない鈴の音のような声がした。 「知ってるよ、わたしやおじいさんに隠れてここに来てたの。もしかしてとは思ったけど、もしかしてだったね。まつり」 その呼び名。とうの昔に呼ばれなくなったあだ名だ。なんで。どうして。いまさらなぜその名を呼ぶ人間がいる? わからない。幻聴か?私の耳に上気した息遣いが聞こえる。ざっ、ざっ、と草を分けながら地面を踏みしめる音が聞こえる。 いてもたってもいられず、私は振り向く。上気した、透明感のある桃色の頬。リスのような丸い眼。ゆるく巻いた亜麻色の髪。 そこには、いるはずもない美容師の姿があった。 私はひどく混乱した。すべてが噛み合っていない存在がいま私の目の前に在った。彼女は目尻をさげ、寂しげな表情で私の目の前に立っていた。 「なんで」 私は脳が混濁するなか、ある限りの感想をもって返事をした。 「そんなことだと思った。忘れられてたのね、わたし」 彼女はしゃがみながら、私がさきほどまで吸っていた煙草の吸殻を拾い上げ、しげしげと見つめる。 「タバコ。ポイ捨ては良くないよ。山火事になっちゃう」 彼女は私が吸っていた最後の一本をポケットの中に入れながらつぶやいた。 「あなたは、だれ?」 私はいま抱いているありったけの疑問を言葉にする。美容師は困ったような寂しげな表情を浮かべながらも、微笑みながら私の疑問に答えた。 「わたしの名前はゆり、だよ。まつり、こうやって会うのは久しぶりだね。っていうのもちょっとおかしいか」 私の名前は茉莉花と書く。いろんなあだ名はあるが、だいたいは茉莉花、とか名字で呼ばれる事が多い。 まつり、と呼ぶ人物は一人しか見当がつかない、だとすればこの美容師はあの少女ーーゆり、であるほかに考えられないのだ。 いままで九年間、私の髪を切り続けた美容師ーーそれは紛うことなく、ゆりだった。 私はなにもわからなくなった。 なんで?どうして?ずっとそばにいたのに。 いまさら?なんのつもり?ずっとそばにいなかったくせに。 わからない。わからない。わからない。わからない。わからない。 「なんで、どうして、いまさら、わからない」 あの日のように私自身の言葉が、こぼれ出るように口をつく。 「まつりが、あの頃の顔をしてた。まつりがまつりだってことはウチの美容室に来たころから知ってたよ。でもなにも言わなかった……言えなかった」 ゆりは一歩一歩、哀しげな微笑みを崩さず、私のほうへ踏みしめるように歩く。 ざっ、ざっ、ざっ、ざっ。 まるで一本の道があるかのように、ゆりは私へと歩み寄っていく。 「まつりのことはたぶん死んでも忘れられないよ。どんなに大きくなったって、どんなに醜い姿になってもね。でも、私はあなたに歩み寄れるような人間じゃなかった……あんなひどい最後だったから」 「……やめてよ、そんな昔のこと」 わたしは思わず後ずさる。 もう忘れていたのに。忘れようとして、そのまますべてに忘れられて、このまま消え去りたかったのに。 「わたし、この10年間はずぅっとまつりのことだけを考えてた。まつりのためにわたしができることを探しつづけた。小学校で一緒になった頃、まつりはなにかを我慢して、そのうえで諦めているような顔をしてた。もうそんな顔を、させないために。」 一言一言、噛みしめるようにゆりは話しかける。 「いまさら……いまさらだよそんなの。もう遅いよ。私は引き返せないところまで来てしまった」 私は踵を返し、断崖絶壁の端へ向かう。 「待って!わたしの話を聞いてからにして」 ぷつん、と私の中でなにかが切れた。 「待つもなにも!最初に切ったのはゆりじゃない!!」 私は思わず叫んでいた。 決定的なあの日。ゆりが私の髪を切ろうとした、あの日のこと。それまで奥深くにしまい、眠らせていた感情が、ありのまま私の中から溢れた。 あまりにも身勝手だ。でもそれを叫ばずにはいられなかった。 「あの日!ゆりが髪を切ろうとした意味がわからない!私から勝手に遠ざかった意味がわからない!!わたしのことが嫌いなんじゃないの、もう放っておいて!!一人で死なせてほしいの!!!!」 「だめ!!」 私が空へ身を委ねようとした瞬間、背後から何者かが私を抱きとどめた。それはゆりだった。 「嫌いじゃないよ……わたし、ずっとまつりのことが好きだもの……静かだけど、なにかをじっくり見つめる涼しい顔が好き。すぐ困った顔をするのも好き。どろんこになって慌てたり、芋虫にびっくりしたり、ふだんは涼しげな顔なのに、なにかあるたびにころころ表情が変わるゆりが好き。でも、まつりが笑った顔が、一番好きなんだ……。 私はただ、まつりの笑った顔が見たかっただけなの……まつりの笑った顔を見ると、胸の奥がきゅーっってなるの。だから私は、まつりの顔が見えるようにしたかったの……」 「……じゃあなんであのとき、私から逃げたの」 私は言葉のナイフを突き刺そうとする。それを包み込むようにゆりは話し続ける。 「逃げたわけじゃないの……まつりのそばにいたかったから、どんな形でもあなたの力になりたくて、いっぱい勉強したの。あの日、人が目の前で自分の命を落とすのを私は見た。その時の顔って、わたしとなかよくなる前のまつりの表情にそっくりで……だから、笑顔をもっとみたくて……かわいい髪にできたら、まつりも喜んでくれると思って……でも、わたしは不器用でなにもできなくて、そのときは悔しくて……ずっと考え込んじゃったの。そんなガラじゃないよね、わたし」 じくり。じくり。じくり。じくり。 胸の奥の痛みが、波紋のように全身に広がる。 嘘だ。そんなの嘘だと言ってほしい。私はこれから生きることを断とうとしているのに。なぜ私のことをつなぎとめようとするの!? 私ははりさけそうな痛みを感じながら叫ぶ。 「それと髪を切るのとなんの関係があるっていうのよ!」 私はただ、ゆりに向かってありったけに当たり散らしていた。 それを包み込むかのように、ゆりの鈴の音のような声が、柔らかい吐息とともにわたしの耳を撫でる。 「まつりは髪の毛あんまり切らなかったでしょう?だから前髪が長くって、ぜんぜん顔が見えなかったの。私が切って、ひとりじめできたらいいなって思っただけなの……」 「……そんな理由で?」 「そう……だからあのときはうまく切れなくって、悔しくて……ずぅーっとこの歳まで悩んでたら、いつの間にか独立開業の美容師だよ?笑っちゃうでしょ……?」 私をうしろからぎゅっと強く抱き寄せ、ふふっと耳元でゆりが笑う。柔らかい吐息の感覚が私の身体を伝う。 ゆりの体温を背中越しに感じる。柔らかく、しなやかで、しびれさせるようなあたたかくて甘い感覚。 だめだよ、そんなの。 私はもっと醜い人間だ。人を理解できず、世界を憎み、自分の生を断とうとしているような女だ。 ゆりのような、優しく、柔らかく、しなやかで美しい人間が私のようなめちゃくちゃな人間のそばにいていいわけがない。 じくり。じくり。じくり。じくり。 私はゆりの腕をそっと振りほどく。 「ごめん、私は自分がそこまでの価値がある人間だとは思えない」 「どうして……?」 「私、自分以外の人間に興味がないの。いや、自分自身も、か」 私は、それまで秘密にしていたことを打ち明けることにした。最後のゆりへの餞として。 「私、小学校を卒業したあとは全寮制の女子校に通ってたんだ。誰も知り合いがいないところで一から人間関係をやりなおそうってね。でもうまくいかなかったんだ。私は自分の周りの出来事に全く興味が持てなかったんだ。だから変人扱い。結局六年間、上位グループにいじめ抜かれて終わっちゃった。 大学でも勉強を惰性でずっとし続けただけ。人間関係も殆どなかった。おかげさまで良い企業に就職はできたけど、就職先は人間関係ありきだった。周りの人との派閥とか、色恋とか、結婚マウントとか……そんなんばっかりで、生きている価値を見いだせなくなってしまった」 私はゆりのほうへ向き直り、後ろ足で一歩一歩後ずさる。 「私は人間に興味がないんだ。誰のことも理解できない。しようとしてもだめだった。誰にも寄り添えない。きっとゆりのことだって理解できない。考えてみてよ、ゆりが私の髪を切ってくれていた九年間、わたしはあなたをゆりだってわからなかったの」 「……それはわたしもそうだよ。言ってしまったらわたしのなかのなにかが崩れると思ったから、言い出せなかった」 なにかを後ろめたく思うように、ゆりは目を伏せる。 「ゆりは悪くない……私が、あなたをゆりだって気づけなかったのが悪いんだ」 「しかたないよ、美容室にいるときはまつりだけのわたしじゃないから……営業スマイルするしかないし、いろんなひとに気に入ってもらうためにわざとぶりっこしなくちゃいけなかったし。でもほんとうはわたしはゆりだよって言いたかった。後ろから抱きしめて、あなただけのゆりだよって、なんども言うのをこらえてた。だから気づかなくったって、しょうがなかったの」 ゆりは涙を流していた。それはただ、私のためだけに流す涙だった。ゆりが髪を切ろうとした、あの日の涙によく似ていた。 ここまで言わせておいてなお、ゆりのことが理解できなかった。なぜ、私に固執するの?なぜ。私のことを好きになったの? 「私は、ゆりのそばにいる資格なんてない」 宣告するかのように私はつぶやく。 「あなたの表情とか、上気した頬とか、したいことは何でもしちゃうお馬鹿なところとか。そういうのひっくるめてあなたのことが好きだった。ずっとそばにいたかった。ゆりと一つになりたかった。でも、私はゆりのことをなにひとつ、わかっていなかった」 一歩一歩、じりじりと崖の淵へさがっていく。右の踵の方から石が転がり落ちる音がした。ぼちゃん、とはるか下の方で水の跳ねる音が聞こえる。 「ここでお別れ。あの日……ボタンの掛け違いはあったけど、あそこで私たちの関係は終わってしまった。それがすべて。この世界の限界だと思う」 「身勝手だよ……身勝手だよそんなの!!」 ゆりは私のほうへ駆け寄り、首根っこを掴みながら叫んだ。 「まつりは終わった話かもしれないけど、わたしのなかではまだ終わっていないの!!私の恋は!!こんなところで終わっていい話じゃないの!!!」 「もう遅いよ、ゆり」 首根っこを掴む拳が固くなり、襟が締められて少し息苦しくなった。それでもゆりはひるまず続ける。 「遅くない!!そんな簡単に死なれちゃ、私が困るの!!! 確かにわたしたちは一つになれないかもしれない、けど!!そばにいる資格なんてどうでもいい!!わたしはただ、まつりにそばにいてほしいだけなの!!!なんでこれだけのことなのに!!!!どうして……どうして同じ気持ちなのに……」 ゆりは涙を振り払うように叫び、静かに泣いていた。 そうか、ゆりも私のことをすべて知っているわけでもないのか。それでもなお、私のそばにいたいんだ。 「……なんで……どうしていまさら……」 私は後ずさり、言葉を紡ごうとした、次の瞬間だった。足場がふっと、軽くなった。首根っこを掴んでいたゆりの拳が解け、知らないうちに自分の高いところでとどまっていた。 「まつり!!!!」 ゆりが叫ぶ声が頭上で聞こえる。 ああ、死ぬのか。ようやく。 最後の最後に、後悔だけが残ったけど、心残りだけは晴れたかな……。 意識がなくなる刹那、そんなことをふと頭をよぎった。最低だったけど、もういいかな、と思い、そこで意識は途切れた。 〓〓〓〓〓〓〓 目が覚めると、シワの寄った天井が目についた。 ここは天国だろうか、地獄だろうかと考えた刹那、身体全体に痛みが走った。 「いっった」 右手に感覚がある。だれかが手を握っているようだ。 「まつり?まつり!?目が覚めた!!ナースさん!!!ナースさぁん!!!!」 隣でだれかが慌ただしく動いているのがわかる。 私、なにしてたんだっけ。ああ、自殺しようとしてたんだ。そこにゆりがでてきて……ってあれは白昼夢とかじゃなかったのか。 なんだか夢を見ているかのようだった。それを全身の痛みが現実に引き戻す。 全身がひどく痛い。体幹が、両手両足の痛みが脳髄に直接痛みを訴えかけてくる。痛みで思考の大半が奪われていた。 そのくせ、頭の荒涼としたすっきりさに覆われていた。 少しするとお医者さんとナースさんが飛び込んできた。なにやら話をしているようだが、どうやら私は全身打撲で済んでしまったようだ。骨も頭も内蔵も大丈夫、しばらくしたら元通りに戻るとのこと。 死にきれなかったんだな。すっきりとした頭の中で理解した。 お医者さんが出ていき、ゆりの顔がどアップで私の前にあらわれた。その顔は目が真っ赤に腫れていた。 「まつり……よかった……よかったよぉ……」 ゆりがずっと泣きじゃくっている。その手はわたしの右手をきゅっと握りしめていた。 胸が苦しくなった。その正体はなんだかわかっている。 ゆりがそばにいる。それはあまりに浮世から離れていることのようで、妙に真実味があった。 こんなんじゃあ会社にもいけないな。休むついでにやめてしまおう。仕事を見つけなくちゃ。次はどうしようか。 そんな馬鹿なことを考えられるほど、私の生はどうしようもなく図太く息づいていた。 いまは私の右手を握りしめているゆりの体温がわたしをつなぎとめていた。あたたかく、いとおしく、残酷なまでに他人だった。 そばにいたい。そばにいよう。これからどこまで続くかわからないけれど、私が生きているうちは、ゆりがきっと私をつなぎとめてくれる。私もきっと、ゆりをつなぎとめられる。 「ゆり、これから、じゃないの?」 私は弱った右手で、ゆりの手をそっと握り返した。
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