鶴田加代の平凡な日常

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 移動直前まで仕事をする。それこそ新規部署が立ち上がり、新たに雑誌が創刊されるとなれば仕事が増える。これについて直接部署で対処し、纏めたうえで総合の経理部へと持ち込むのが鶴田の仕事になるのだが、引き継ぎも必要になる。  10年以上をかけて育てあげた経理部だから問題なく引き継ぎはできているのだが、鶴田一人が抱えていた仕事量が案外多かった。主に面倒くさい役員達が会社の金を理由をつけて使わないよう、明朗会計させていたのが鶴田だった。今後は別の人間にこの役目をお願いしなければならないのだが……圧に負けないように鍛えておかなければ。  時計を見れば21時少し前。今日はまだ早いが、家に帰って自炊する気力はない。  黒のパンツスーツ、白のシャツ、長い薄茶の髪を束ねて後ろでお団子一つに纏め、トレードマークの銀縁眼鏡を指でちょっと押し上げる。背を伸ばして裏口から会社を後にする鶴田が向かったのは、駅の近くにあるイタリアンの店だった。  そうして道を歩いていると、不意に前方に見たことのある女性を見つける。  小柄で愛らしい顔をし、ふわふわと柔らかいセミロングスタイルの彼女は女性誌の2年目で、何度か社内で見たことがある。とても可愛い子で、明るくてよく笑っている印象がある。ふわふわの髪の毛が羊に似ていると思ったので、鶴田は個人的に「ヒツジちゃん」と名付けていた。  そんなヒツジちゃんが少し先で、男に絡まれている。ナンパ……だろうか。困って断りを入れているようなのだが、男の方は押せばどうにかなると思っているのかグイグイ迫っている。  本来は面倒ごとに首を突っ込むべきでは無い。鶴田だっていい年なのだから。  だが明らかに目の前で困っている知人(と一方的に思っている)を助けないのも後味が悪いし、何より正義ではない。  男がヒツジちゃんの細い手首を掴んだ瞬間、鶴田はその男の腕をかなりの握力で掴んだ。 「いっ! なんだよ!」 「彼女、困っています。手を離していただけませんか」  男はそこそこ長身だろうが、鶴田も171cmと女性にしては高身長。加えて冷気を放つような視線だ。男はたじろぎながらも食らいついてくる。 「ちょっと食事したいって誘ってただけで」 「断ってましたよね?」 「そんな事!」  鶴田は背後に庇ったヒツジちゃんに視線を送る。彼女は怯えながらも鶴田に行く意思がない事を首を横に振って伝えた。 「彼女、行く気がないようです。お引き取りください」 「アンタに関係ないだろ!」 「うちの会社の若い子ですので、全くの無関係というわけではありません。どうしてもと言うのなら、この先に交番がありますのでそこで話し合いをいたしましょう」  男の手首を掴んでいる手を離さないように握ると、流石に男も青い顔をして腕を振り払ってくる。手を離し、そのまま立ち去っていく男を見送っていると、背後のヒツジちゃんがガバリと頭を下げた。 「有り難うございます!」 「構わないわ」  小柄で可愛らしい彼女は、男の目から見たら御しやすいように見えるのだろう。大きな茶色の目に、薄茶色のふわふわの髪。色白で、ほっそりと手足が長い。  白の七分袖ブラウスに薄いピンクのフレアスカートという女性らしいスタイルの彼女は余程怖かったのだろう、ちょっと泣きそうな顔をしていた。 「本当に、なんてお礼を言ったらいいか。鶴田先輩が助けてくれなかったら私……」 「私の事、知ってるの?」  一方的に鶴田が知っているだけだと思っていたから、驚いた。ただ、その驚いたは表情に出ない。小学生で漫画やアニメの世界にどっぷりと浸った結果、同級生から「オタク」と言われ一度辛い目を見た。それからは極力顔に出ないように、ニヤけないようにと訓練した結果、表情筋を殺す方法を会得したのだ。  これが「怖い」と言われるのだが、ヒツジちゃんは朗らかな表情で微笑んで頷いた。 「社食にいる時に、何度かお見かけしました。とてもかっこいいので、ちょっと羨ましくて」 「羨ましい?」 「あっ、あの! 私、かっこいい女性に憧れて……でも、なんだかそんな格好をしても見慣れないせいか似合わない気がしていて。女性誌の先輩達にも相談しましたし、真似てコーデもしたんですが、皆さんに微妙な評価をされて……。なので、鶴田先輩をお見かけすると凄くかっこいいと思っていたんです!」  思わぬ事に嬉しくなる。表情筋緩みそうだ。  それにしても、双方共に無い物ねだりなのかもしれない。鶴田はむしろヒツジちゃんのような可愛い服装をしてみたい。が、どうしたってそんな格好で鏡の前に立つ自分を想像するだけで鏡を叩き割りたくなる。似合わない。 「すみません、ご迷惑をおかけした上にこんな事を言って」  ヒツジちゃんはしゅんと花が萎れたように俯いてしまう。表面上の熱量の違いに、鶴田が引いているとか迷惑がっていると取られたみたいだ。 「本当に、有り難うございました」  改めてぺこりとお辞儀した彼女が去ろうと向きを変える。このまま行かせてはせっかく出来た出会いが終わってしまう。  それが惜しくて、鶴田の方から声をかけた。 「待って」 「はい?」 「……夕飯、食べたかしら?」 「? いいえ」 「私もまだなのよ。よければ、ご一緒しない?」  断られるだろうか? こんないきなりは独身でなければ自由がきかない。予定とかあるかもしれない。見たいアニメの放送時間とか、期間限定のライブ配信とか。  けれどヒツジちゃんはキョトッとして、次には大きな目をキラキラ輝かせた。 「行きます! あっ、えっと、ご一緒させてください!」  よかった、嫌がられていなくて。  ほっとした鶴田はほんの僅か、口元に笑みを浮かべた。 「好きな物、あるかしら? 食べたいものとか」 「いえ、そんな! 鶴田先輩は何の予定でしたか?」 「イタリアンに行こうと思っていたけれど」 「いいですね! 私、ボロネーゼとか好きです」 「その服では止めた方がいいんじゃないかしら……」  何せ、白だから。 「はっ! そうですね、すみません!」 「……ふふっ」  思った以上に表情がコロコロと変わる可愛らしい子。思わず笑う鶴田に、ヒツジちゃんは恥ずかしそうにちょっと下を見ている。 「そうね……鳥料理の美味しい居酒屋も知っているわ。リーズナブルで、お酒も美味しいのよ。そこにしましょうか?」 「はい! あっ、いいんですか?」 「構わないわ、絶対にそこと決めていたわけけではないし。お酒と食事が楽しめればそれが一番だから」  それに今日は、思わぬ同行者ができたから。  嬉しそうに笑ってくれるヒツジちゃん(本名・新野琴音(にいのことね))との夕食を楽しんだ鶴田は、またの約束をして連絡先を交換して帰路についたのだった。 【おしまい】
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