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ドッペルゲンガーは今日も逝けない
茹だるような暑さが、やる気を削ぐ。まだ六月だというのに夏日が続き、それに相まって身体中に纏わりついてくる湿気がなんとも言い難い不快感。
あと少しで一学期の期末試験、その一山さえ超えたら夏休みだ。
高校生の試験は、凄惨だ。油断をするとすぐに平均点へ落ちてしまう。そろそろ本気で机に向かい、参考書と戦わなければならない時期である。
ああ、早く一ヶ月後の私になりたい。ちょうど夏休みの真っ只中で昼間からゴロゴロしながらアイスを食べる。蒸し暑い外へ出る必要もなければ、課題に追われることもない。悠々自適に過ごしていても誰にも文句を言われることのない……。そう、文字通り夢のような生活。
そんな妄想も虚しく、朝一番のチャイムが響き現実に引き戻される。今日もまた、いつも通りの一日がスタートするのか。気は乗らないが腹を括り、一限目の数学のノートを取り出した。
前の授業ではどこまでやったんだっけ? ノートをめくると睡魔との戦いの末、ようやく形を取り止めたミミズのような文字が姿を現した。思い起こそうとしても、まるで記憶がない。完全に落ちていたようである。
流し読みをする中で、心に沈む一抹の不安。この流れ、この進捗、この終わり方。そう、我が学校の数学教師は大抵こういった授業のシメでいつも――。
私の不安は的中した。
ノートの隙間からスルリと机上へ滑り落ちてきたのはA4サイズのプリント用紙。中身を見ると関数の問題がズラリと並んでいる。
恐々と瞳を細めてその用紙を見ると、確かに私の文字で「6/16 提出!」と書かれていた。そう記されているにもかかわらず、期日である今日の時点でまっさらな用紙。全く記憶にないけど……、という言い訳は当然教師へは通じない。
ああ、どうして授業の十五分前に気づいてしまったのだろう。しかもこれ、提出するやつじゃんか……。
頭を抱え絶望の淵に立つ私のことなど、当然誰も気づいていないわけで、ほとんどの生徒が友人と話し込んでいた。いつもはもう少し落ち着きのある二年三組なのだが、今日は少し違う。私たち学生にとって、ちょっとしたイベントがあるのだ。
――今日、転校生がくるらしいよ。
――さっき、先生の後ろをついて行く男子見たー。
たかが一人増えるというだけで、喧しい。転校生がやってくることは、この街ではそれほど珍しいことではない。
この天暈市は、十年ほど前から急速に開発が進み、今では街の半分ほどが新たに開拓されたエリアとなっている。商業施設が次々と建てられ暮らしやすくなるにつれて、マンションや一軒家が数を増やす。そのような背景があってか、ある年には学年で三人も転校してきたことがあった。
それにしても、夏休み直前というのは珍しい。親の仕事の都合だろうか? 試験二週間前に来るなんて可哀想なやつ。
「朝礼、はじめるぞー」
ドアを開ける音とともに、いつも通り、担任教師の声が教室内に響き渡る。そして、その後ろに見慣れない男子生徒がいた。
――ああ、彼が。
「高崎昴希と言います。東京から引っ越してきました。これからよろしくお願いします」
にこりと微笑み、軽く会釈をする。
顔立ちはどちらかというと童顔で、奥二重の丸い瞳が真っ直ぐ私たちを捉えていた。ゆるい癖っ毛の黒髪を揺らし、朗らかに微笑む姿は、男の子には失礼かもしれないが少し可愛らしい。知らない人の前に立たされ自己紹介をするというのに、緊張することなく落ち着いている。
「じゃあ高崎、お前の席は……」
先生が高崎くんの席を案内する。そして彼の着席を確認した後、いつも通り朝礼を始めた。
――ん?
ちょっと待って、なぜ先生はもう一人の転校生の紹介をしないの?
私にはハッキリと転校生がもう一人いるように見えた。それも高崎くんに瓜二つの、驚くぐらい似ているそっくりさんだ。双子……、だろうか?
「試験二週間前だから、部活動は……」
淡々と下校時刻について説明する先生。転校生にざわつく女子。新たな学友に期待を寄せる男子。誰もそっくりさんに気づいていないのか。まさか転校早々、クラス全員から総シカト!?
というか、転校生の高崎くん。あなたは彼の兄弟ではないのかい? なにか、フォローはないのかい……?
そんなハラハラしている私の様子など気にすることなく、高崎くんのそっくりさんは、伸びをしながら教室中をのんびりと見回していた。
「――起立、礼」
ああ、どうしよう。
結局、彼の紹介はないまま朝礼が終わってしまった。無視されているんだったら話しかけてあげるべきなのだろうか。流石にクラス総無視は許せないものがある。
そうこう考えているうちに、高崎くんのそっくりさんは何も言わずに教室から出て行く。気づけば私は席を立ち、彼を追いかけていた。
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