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「ところで、あなた」
ふんふんふんと鼻歌を歌いながら、テレビ画面に齧り付く彼へ静かに問う。
「もう遅い時間なんだから、お家へ帰った方がいいんじゃない?」
「心配してくれてありがとう。でもほら、僕って誰にも視認されないからさ。夜にフラついてても、事件に巻き込まれたりはしないから大丈夫」
「いや、別にあなたの心配をしているわけではなくて。婉曲的な表現を避けるならば、いつまで私の部屋にいるのと聞いている」
帰る気配を見せない彼へ苛立ちが積もる一方で、先ほどから下の階でお母さんが「晩御飯できたよ」と呼んでいる声に怯える。
一回目の「ご飯できたよー」は他所様向けの柔らかい声色。しかし数を重ねる毎に、その声にドスが効いてくる。「早よ台所へ来て、食器並べんの手伝わんかい」や「ワレ、おかんのこと家政婦と勘違いしとんのとちゃう」という思いが声に滲み出てくるのである。現状のお母さんの声から判断するに、そろそろ限界が近い。
一刻も早く部屋着に着替え、馳せ参じなければならない状況の中、呑気な彼を家から追い出すには時間が足りない。横の部屋で着替えよう。たとえ幽霊でも……、コイツの目の前では着替えたくない。
渋々部屋着を持って、今は物置となってしまった横の部屋に移動する。そっと扉を開くと、小学生用の机やランドセル等が所狭しと置かれていた。
ここには、亡くなった姉さんのものが捨てられずに残されている。私には姉がいた。七歳も年上の姉。だが、彼女の記憶はない。と、いうのも私が生まれる直前に病気で亡くなっているのだ。
学習机の上に置かれた絵日記のページを捲ると、両親と姉さんとの思い出が稚拙な文字で記されている。黄色やオレンジ色などの明るい暖色をふんだんに使い、楽しげに表現された日々の記録。彼女はいつも明るく前向きで、にこやかな性格だったそうだ。
喜堂真子。
真っ直ぐな子になりますようにという意味を込めて名付けられた通り、絵日記の中の彼女は最後まで真っ直ぐだ。辛い治療にもめげず、楽しげに直向きに過ごしている。
姉さんの日記やメモを見る度にいつも思うことがある。私のことが一度も出てこないのだ。
私が生まれてくることなど、姉さんにとっては記録に残すまでもないほどの些細なことだったのかもしれない。一方で不安になる。辛い治療の最中生まれてくる妹を恨めしく思ってはいなかっただろうか。そういう憶測をしてしまうあたり、私は心が狭い。
――一番近いけど、一番遠い赤の他人だ。
再び、下の階からお母さんの催促が耳へ届き、慌てて部屋着に着替えてリビングへ向かった。
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