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プロローグ
汚いものには蓋をしたくなるものだ。
特にそれが自分の手に余るどうしようもないものだと、汚れを落とすより、蓋をした方が簡単だからだ。
陶也がその事に気付き始めたのは、幾つの時だったろう。
清潔な家に住み始め、自分で部屋の掃除が出来るようになった頃かもしれない。
ごちゃごちゃとした物を収納し、要らない物を捨てれば、気持ちがすっと落ち着いた。しかし、振り返って、まとめられたごみ袋をいざ捨てようとした途端、陶也の心は重くなる。
陶也は4歳の時、母に捨てられた。以来、ゴミ袋を見ると、陶也は4歳まで母と暮らしたゴミだらけの小さなアパートの一室を思い出す。
母はいつも、シーツや毛布を陶也の上に被せた。
部屋の隅に置かれている大量のゴミ袋と一緒に、その中に埋もれていると、母は陶也の存在を忘れた。
そんな母親を世間では酷い親だと罵るが、当時の陶也はそれでも良かった。
母の心が平穏である事の方が陶也には大事だったのだ。
鏡に向かって化粧をしている母の後ろ姿を、陶也は静かにゴミの中から見つめる。
化粧を終えた母が立ち上がって振り返った。瞬間、陶也と目が合ってしまう。 すると、きれいに化粧をされた母の眉間に、深い皺が刻まれた。その苦し気な表情を見る度に、陶也の心は重い鉛のようなものが胸にわだかまった。
そんなある日のこと。
陶也の左手首に付けられた犬の首輪に、母はそっと、陶也の肌に触れぬよう気を遣いながらリードを付けた。そして、リードを引っ張り、タクシーに乗る。
最初はいつもの精神科へ行くのかと思っていた。しかし、灰色の街並みを抜け、長い高速道路をひたすら走って行くと、次第に嫌な予感がしてきた。
流れていく景色を見つめながら、陶也は不安を払拭するかのように、頭の中だけで、母にずっと語りかけていた。
「お母さん、ごめんなさい……。僕が普通の子じゃないから、お母さんは僕の事が嫌いなんだね。
でもね、僕だって、他の子と同じように産まれて、お母さんに思いっきり甘えてみたかった。
でも……どうしても無理なんだ……。だって、お母さんに触られると、何故だかとっても怖い映像が頭の中に浮かび上がってくるんだ。
それは、まだ赤ちゃんだった頃の僕が、お母さんに口を塞がれて、もがいている姿だったり、泣いて泣いて泣き通している僕をほったらかしにして、終いにはベッドから突き落としていたり……。
だから、お母さんに触れられるのが、僕はすっごく怖いんだ……。
お母さんが僕に触れてくる度に、お母さんが僕を嫌いだって解るから……」
「自閉症って診断されてたの……」
やがて、タクシーが辿り着いた先は、山の中腹にある古い鶏卵農家だった。
母と陶也がタクシーを降りると、その家から出てきたのは、青い瞳のお爺さんだった。初めて見る、大柄な異国のお爺さんの姿に、陶也は震えた。
「自閉症って……診断されてて……。でも、私なりに……頑張ってもみたの……」
肩を落とし、俯いたままの母が、もう一度そのお爺さんに言った。
「私にはもう……この子と暮らすことは無理……」
震えるような母の声が僕の頭上から聞こえた。
「そうか」
青い瞳のお爺さんが短く答えると、母は僕を繋いでいた赤いリードをお爺さんに渡した。
そして、振り返ることなく一人、またタクシーに乗って去ってしまった。
(──僕は遂に捨てられてしまった)
母と暮らしていた狭いアパートの一室で、陶也を囲んでいたゴミ袋と自分が重なる。
(──僕はやっぱりいらないんだ。そうか……いらないんだ……)
陶也の瞳から涙が零れた。
(使い物にならない僕でも、部屋の隅でゴミと一緒でもいいから、ずっとお母さんの側に置いて欲しかった。
──お母さん、ごめんなさい。ゴミみたいな子に産まれて、本当にごめんなさい……)
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