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若かりし頃の女性はお腹を押さえて泣いていた。簡素なベッドに白い部屋。彼女は堕胎処置を終え、さっきまでお腹に居たであろう赤ちゃんの残像を追っていた。堕胎するには周期がギリギリだったのだろう。手術というより、陣痛を促し、彼女は小さい我が子を産み落としたのだ。その瞬間、僅かに聞こえた小さな産声。確かに生きていたと思えるその声が永い年月を過ぎても彼女の耳に張り付き、今でも罪悪感に苛まれていた。
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陶也は唇を噛み締め、瞼から溢れそうになる涙をぐっと堪えた。そして、彼女の感情と同化してしまった身体を元に戻そうと必死になる。 と、同時に母の事を思い出した。
もしも母が中絶を選択していたなら、母もあの女性のように、ずっと罪悪感に苛まれていたのだろうか? だったら、そうしてくれれば良かったのに……。母の罪悪感に包まれた方が、母に愛されている気がする。それは思い違いかもしれないけれど、産んだことで、後悔にかられた揚げ句、関心もなく捨てられるのなら、早くに堕胎され、ずっと母の心の中で生きていた方が良かった気がする……。
エレベーターの扉が開き、患者と看護士達が外に出た。陶也は身を緩ませ、ほっと一息付く。
他人と接触しそうな場面ではいつも力が入る。ほんの少し他人に接触しただけで、相手の記憶が流れ込んでしまうのは本当に困りものだ。しかもそれは、良い記憶とは限らない。むしろネガティブで暗い記憶のことの方が多いから厄介だ。
人は良い思い出にしろ、悪い思い出にしろ、自分の中で消化しきれないものが記憶として残ると、以前どこかで聞いたことがある。
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