九月の朝顔

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西日がもろに差し込む路面電車のなかは蒸し風呂のようだった。高崎は上着を脱いでネクタイを緩めた。目の前に座った和服の老人が扇子で顔をあおいでいる。 「こうも暑さが続くと、たまりませんなあ」  老人と目が合い、高崎は曖昧な笑みを浮かべた。 「お勤めの方はそんな格好で大変ですな」  やはり車で行けば良かったと後悔したが、加惠子に貸してしまったのだから仕方がない。鎌倉までドライブに行ってきますと朝から出掛けていったが、誰と一緒にとは言わなかったし高崎もあえて触れなかった。妻の化粧が以前より派手になっているのには気付いていたが彼はそれほど動揺していなかった。妻どころか実子の高崎とも折り合いの良くない母親に対して夫婦円満を取り繕うあたり、彼もまた共犯者であった。  終点のひとつ前で高崎は下車した。駅前には十数軒ほどの商店があり買い物籠を提げた主婦が集まっている。魚屋があるせいか蠅が集まっていて、隣の団子屋にも累が及んでいた。しかし近所の連中は慣れているのか平気な顔で大福やら海苔巻きを購入している。  長屋がひしめく狭い路地はかすかにどぶの臭気を立ちのぼらせていた。子どもの歓声と赤ん坊の泣き声が遠くから聞こえる。高崎は汗を拭いながらしばらく路地を進んだ。  すこし道が広がって小さいが板塀で区切られた戸建が並ぶ地域にたどり着くと、そのひとつの木戸を開けて中に入った。玄関から無遠慮に奥を覗いたが人気がないので靴を履きなおし庭へ回った。  南向きときいていたが実際は少し西に向いているのだろう、夕日が斜めに差し込む庭で、須永はカンヴァスに色を載せていた。その先には裸の女の背中があった。大きな盥に躰を沈め、濡れた白い肌がきらきらと反射している。ざっと結った髪の毛先が肩にへばりついているのも、須永は細かく描き写していた。高崎は足元に転がっていた如雨露を蹴飛ばしてしまい大きな音をたてて肝を冷やしたが、女の二の腕が小さく震えただけで、ふたりは振り向きもしなかった。汚れた筆だけがカンヴァスとパレットの間を忙しく往復していた。
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