888人が本棚に入れています
本棚に追加
この世に神様がいるならば、きっと今の俺の姿も上から見ていることだろう。
神様が全能だというならば、きっと今の俺が立たされている現実と張り裂けそうなほどの胸の痛みも分かっているはずだろう。
もう本当に何でもいいから助けて欲しいのに、いつまで経っても救いの手は伸びてこない。普段は神様なんて信じてもいないくせに、こういう時だけ神頼みする俺が悪いのだろうか? だから助けてくれないのだろうか。
『待ってるだけじゃ誰も助けてくれません。自分から一歩を踏み出さないと』なんて小学生の時に担任の先生から言われたことがあるけれど──今の俺は一歩どころか半歩も踏み出せないほど困窮していた。
全てはバイト先の先輩だった佐藤一郎のせいだ。
今はどこにいるかも分からない佐藤先輩はあの時、「絶対に迷惑はかけない」と俺に言った。名前を貸してもらうだけなんだ、とも言った。普段から飲みに連れて行ってもらったり、仕事でも何かと面倒を見てもらっている先輩ということもあったから、彼を信じて俺はサインしたのだ。
……まさかそれが、一千万円の借金の連帯保証人になっていたなんて。
「いいかい。佐藤が逃げたということは、この借金は君が支払う義務があるんです」
ある日突然、こわもての男二人が俺のアパートに来て言った。何が起きたのか分からず動揺する俺に、男達はこう続けた。
「支払いが無理なら、田舎のご両親に話させてもらいます。農業の他に、美味しい梨を作ってらっしゃるそうですな」
両親の大切な梨園と畑が奪われる。俺の借金でもないのに。……しかしそれが合法であり、全ては「連帯保証人のサインをした俺のせい」にされてしまうのだから無知というものは恐ろしい。
午後八時。都内S区歓楽街・大三元町。
「………」
そういう訳で俺は今、「高収入・高待遇! エスコートクラブ・新人ボーイ募集」のネット広告に応募して面接に来たのだった。
エスコートクラブと聞けば何やらセレブ感溢れる響きだが、実際は出張ホストとかデリへルとか、一言でまとめれば体を売る風俗だ。客は優雅なマダムや大企業の社長などのセレブだと広告には書いてあったけれど……こんな毒々しさ丸出しのネオン街に店を構えていて、本当にセレブが来るのだろうか。
とにかく、背に腹は代えられない。神頼みしても助けてもらえる気配はないし、両親の土地を守るために俺が身を売って金を作るしかない。
泣いて叫んで転げ回って、地団太を踏んで、佐藤先輩を呪っても、俺の現状は変わらないのだ。
もう、やるしかない──。
「おい」
「……えっ?」
突然背後からから肩を掴まれ、今しも店に入ろうとしていた俺の「一歩」が前ではなく後ろに向かって踏み出される形になった。
「あっ!」
しかも、後方の着地点にあった硬いものを思い切り踏んでしまう。それが背後にいる人物の足だということを理解するのに一秒もかからなかった。
「ご、ごめんなさいっ……!」
咄嗟に振り向いて頭を下げたが、俺の後ろに立っていた男は顔色一つ変えずに俺をじっと見つめている。
「お前、ここの従業員か?」
「い、いえ。今から面接に行こうと思っていただけで……」
「ふうん……」
俺より遥かに背が高く体もデカい、いかつい男だ。ホスト風の整った顔立ちに咥え煙草。客引きが着ているのとは違う、胸元の開いた黒いスーツ。明らかに一般人ではないという出で立ち。
──靴の弁償をしろと言われたらどうしよう。
青褪める俺を見て、スーツの男が小さく笑った。
「金の話なら相談に乗るぞ。ここよりもっと良い仕事がある」
「いや、その……大丈夫です」
「そうか。それなら俺の靴の賠償の話をするか」
「………」
ツイてない。俺の人生、本当にツイてない……。
最初のコメントを投稿しよう!