889人が本棚に入れています
本棚に追加
そうして大三元町歓楽街にある一軒の居酒屋「銀海」で、俺は男と向かい合ってウーロン茶を飲む羽目になった。
「遠慮しねえで食っていいぞ。割り勘なんて言わねえから」
「はあ」
慣れ親しんだ居酒屋の焼き鳥や一口ステーキや海鮮チャーハン。庶民の味で恩を着せやがってとは思わないが、緊張のためか……なかなか箸を取ることができない。
「………」
俺はこれからどうなるんだろう。
風俗よりも良い仕事なんてものがあるとしたら、それはもう犯罪なんじゃないだろうか。違法薬物を売らされたり、振り込め詐欺に利用されたり、お年寄りを騙して高額の品を売りつけたり。
まともなことをやっていたのでは短期間で一千万なんて稼げない。……だけど、犯罪は。犯罪だけは絶対に嫌だ。
「そんなに身構えなくていい。靴のことも気にしてねえから、気を楽にしてくれ」
言いながら、男はフォークでステーキを刺しては次々に頬張っている。ネオンの下では分からなかったが男の頬には右目の下から顎にかけて一本、蚯蚓腫れのような、手術痕のような引き攣れが走っていた。
「兄さん、名前は?」
「あ、えっと……春沢那由太です」
「那由太か。それで、どうして那由太は風俗で働こうなんて思ったんだ。まずはそこから聞かせてくれ」
「は、はい」
借金の連帯保証人になったこと、一千万払わなければ実家の土地が取られてしまうこと、こうなった以上は風俗で体を売ってでも金を作らなければならないこと。
全てを隠さずに白状すると、男が「それは大変だなぁ」と他人事のように呟いた。
「だから俺、あの店で働こうと思って──」
「那由太」
顔を上げた俺の目の前に、正面から割りばしの先端が向けられる。
「言っておくが夜の仕事なんてどれも、本指名客が何人もつかねえと稼げねえぞ。売れるのは男も女も一握りの才能がある奴だけだ。今の時代、見た目が良くて若けりゃ稼げるってモンじゃねえ。一千万となったら並大抵の努力じゃおっつかねえぞ」
「そ、そうなんですか? でも、借金返済のために風俗に行くっていうのは今でもよくある話なんじゃ……」
「額にもよるが、例えば返済にあてる金を五百万、店からバンスで前借りするだろ。そうすると店側も金を取り戻すために、粗悪な客だろうと一日に一定数はそいつに客を付けざるを得なくなる。途中でそいつが逃げないように、バックのやくざに管理を依頼する場合もある。そうなったらもう毎日が地獄だぞ」
「………」
「何年間も毎日毎日、手元に残らない金のために若い男の子が好きなオッサンオバサンとセックスする覚悟があるっていうなら、止めねえけど」
俺はテーブルの上のチャーハンに視線を落とし、沈黙した。
周りの席では大学生やサラリーマンが旨そうに飯を食って、酒を飲んでいる。日々の悩みなんて居酒屋で飲んで吹き飛ばしてしまえるような「普通の」人達だ。
つい最近まで、俺もそちら側にいたのに……。
最初のコメントを投稿しよう!